
昨日から、東京地方、雪、雪、雪でございます。その昨日が、雨女の私ことクラシックイタチは、ヒビキくんのバイオリンレッスンのお伴でございました。その帰り道、ヒビキ、
「あれ、バイオリンの限界じゃなかったね」
うん。そうなのだ。このところ、ヒビキのバイオリンの取り組みにどうも腑に落ちないところがあったので、先生に無理を申し出て、少し間隔を詰めて、レッスンをお願いしたのである。そこで、その1/2の分数バイオリンで出せる音が、こないだまでのは、ぜんぜん限界なんかじゃなくて、もっといくらでもいい音、澄んだ音が出せることがわかったのだ。

それを聴いていたクラシックイタチもいろいろと発見があった。ひとつは、バイオリンの音というのは、ノイズと、クリアで強い澄んだ音との二種類が、どうも同時に出るようだ。ところが下手に弾くと、このノイズと旋律の音とが混ざってしまう。これがギギギというやつだ。ところが弓がうまく弦に乗ると、その2種類の音がまっぷたつに分かれる。で、ノイズというのはなければいいのかというと……というのがふたつめだ。
ふたつめには、このノイズというもののお陰で、私たちはバイオリンに──弾き手と同様に──集中する、いや集中することを余儀なくされるのではあるまいか。言い直すと、このかすかに聴こえ「続ける」やわらかだけれどもやっぱりノイズではあるものの存在を感じるからこそ、その上に立つメロディに耳を集中させてしまうんじゃないか、と思ったのである。
そこで思い出したのが先日の演奏会のことだ。それはオーケストラ用のホールで演奏された吹奏楽だったのだが、夫のほうは演奏があまりに素晴らしいと泣いていたほどだったのに、私はどうも弦楽器がないのが深みに欠けるように思ってしまった。ラッパは、弦の海の向こうからとどろいてくるから素敵なのであって、ラッパがみんなでメロディを吹いていてもなあ。だが、それ自体はたいへん美しいものだったので、どうも私の言い分が通らない。そこでこのバイオリンの発見を機によくよく考えてみると、ラッパの音には、バイオリンのようなノイズが含まれていないというのが、なんと!クラシックイタチには「不満」だったようなのである。
ノイズがないのが不満だって?
でもそうなのだ。そのあやうい綱渡りを集中することで成立させるのが、弦楽器の世界なのではないだろうか。その手織りものな感じ、そのガラス細工な感じは、同時に動物的な有機的なものでもあって、それがクラシックイタチの好みなのであろう。
うーん、バイオリンっておもしろいなあ。

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