神戸空襲を記録する会(代表・中田政子)が取り組んできた「神戸空襲の碑」、正式には「神戸空襲を忘れない いのちと平和の碑」が完成しました。除幕式は、2013年8月15日。私は、神戸・南京をむすぶ会http://ksyc.jp/nankin/
の南京・台湾フィールドワークで出席できませんでした。昨日やっと見てきました。ステキな碑です。
除幕式の様子は、火垂の墓を歩く会の以下のホームページに写真がはられています。
http://homepage3.nifty.com/koko-legend/hotaru/20130815kobe_memorial_photo.htm
(8月7日、石が設置されました。)
(大きなクレーンがきました)
(何回も調整して設置されました。銅版とハトは、未着です)
(きのう、8月27日、やっと現場に向かいました。北入口です。)
(左にまわると、ありました)
(銅版もハトもついています)
(裏面です。8000名を越える犠牲者の名前を刻むスペースがありますが、その一部しかお名前が書かれていません。残りのスペースはどこまでうめられるのでしょうか・・・。)
(最初の部分です。ゆうさんの両親も神戸空襲に会いましたが無事でした。その時の話は何度も聞きました。父親は飛行機工場で働いていて戦争にいきませんでした。ものぐさで、空襲警報をずっと無視していたのに、一度だけ逃げたらその時工場がやられたそうです。)
(銘版の最後のところです)
(下の方におとなしく斎藤造園さんのマークがありました。斉藤造園さん、ごくろうさまでした。)
(背景の山もいい感じです。ゆうさんは、このあたりの育ちで、よく遊んだ裏山です。)
(暑いので休もうとしたら、オット、ペンキ塗りたてでした。石碑設置とあわせて公園整備がおこなわれました。神戸市さん、ありがとうございます。)
(大倉山公園内に、こんなのがあります)
(立派なものです。この上に、伊藤博文の銅像があったのです)
(公社さんが、簡単な解説をかいてくれています)
(これが大倉山公園の全体図です。一番北(左)の部分に石碑ができました。もともとこの公園は伊藤博文のスポンサーでもあった大倉喜八郎の別荘がありました。日露戦争後の条約締結で、伊藤博文が弱腰外交をしたと起こった群衆が、もともと湊川神社にあった伊藤博文の像を引き倒しました。その後、大倉が再建しようとしました。もう一つの別荘の諏訪山公園に建てる案がありましたが、坂がきつくて見に来てくれないだろうと、大倉山の別荘を大倉が神戸市に寄付をして、その中に伊藤博文の像をつくったのです。少々、説明が長くなりましたが、その二代目の像は、アジア・太平洋戦争時機に供出され、鉄砲の弾になってしまいました。その後、再建の話はでていません。立派な台座だけが残っているのです。国会議事堂の上の部分と似ていますが、同じ設計者だそうです。)
(こんな立派な伊藤博文像でした。当時は大きなビルもなく、神戸が一望できたことでしょう・・。)
(台座の少し南にこんなモニュメントがあります)
(とこしえに平和を。1990年4月、兵庫県統一メーデー実行委員会がつくりました。戦争中、ここには高射砲台がありました。ここから、よく神戸市内が見渡せたのです。)
(公園の南入口的なとことにブロンズ像があります)
(右へ行くと中央図書館、左へ登ると公園です。)
(更に南に文化ホールがあります。ゆうさんは今年もオカリナフェスティバルにでます。8月30日、出番です。)
(文化ホールプレイガイドに宣伝がありました。入場料は、1000円、出演料は、3000円、ギャラではありmせん。出演者が払うのです。)
(近くに、神戸華僑がランプをはじめて持ち込んだという記念碑があります)
(孫文さんの像もあります)
(神戸にゆかりのある孫文先生をたたえています。)
(文化ホールの南に体育館があります。大学2、3年のころ、バトミントンに凝って通ったことがあります。)
(体育館前のモニュメントです。暑いけどがんばってます・・・。)
(図書館の少し東にもっこす本店があります。中央図書館内の青丘文庫http://ksyc.jp/sb/
の研究会のとき、ときどき食べにいきます。トッピングのネギは100円で、おわん1杯でます。)
(大倉山公園の最高峰?にある東屋です)
(そこからの景色は最高です。それほどのことは、という声もあります・・・・。)
(公園をでるとネコおばさんがきました)
(ネコの体重にあわせて?餌をわけています)
(行儀よくたべています)
の南京・台湾フィールドワークで出席できませんでした。昨日やっと見てきました。ステキな碑です。
除幕式の様子は、火垂の墓を歩く会の以下のホームページに写真がはられています。
http://homepage3.nifty.com/koko-legend/hotaru/20130815kobe_memorial_photo.htm
(8月7日、石が設置されました。)
(大きなクレーンがきました)
(何回も調整して設置されました。銅版とハトは、未着です)
(きのう、8月27日、やっと現場に向かいました。北入口です。)
(左にまわると、ありました)
(銅版もハトもついています)
(裏面です。8000名を越える犠牲者の名前を刻むスペースがありますが、その一部しかお名前が書かれていません。残りのスペースはどこまでうめられるのでしょうか・・・。)
(最初の部分です。ゆうさんの両親も神戸空襲に会いましたが無事でした。その時の話は何度も聞きました。父親は飛行機工場で働いていて戦争にいきませんでした。ものぐさで、空襲警報をずっと無視していたのに、一度だけ逃げたらその時工場がやられたそうです。)
(銘版の最後のところです)
(下の方におとなしく斎藤造園さんのマークがありました。斉藤造園さん、ごくろうさまでした。)
(背景の山もいい感じです。ゆうさんは、このあたりの育ちで、よく遊んだ裏山です。)
(暑いので休もうとしたら、オット、ペンキ塗りたてでした。石碑設置とあわせて公園整備がおこなわれました。神戸市さん、ありがとうございます。)
(大倉山公園内に、こんなのがあります)
(立派なものです。この上に、伊藤博文の銅像があったのです)
(公社さんが、簡単な解説をかいてくれています)
(これが大倉山公園の全体図です。一番北(左)の部分に石碑ができました。もともとこの公園は伊藤博文のスポンサーでもあった大倉喜八郎の別荘がありました。日露戦争後の条約締結で、伊藤博文が弱腰外交をしたと起こった群衆が、もともと湊川神社にあった伊藤博文の像を引き倒しました。その後、大倉が再建しようとしました。もう一つの別荘の諏訪山公園に建てる案がありましたが、坂がきつくて見に来てくれないだろうと、大倉山の別荘を大倉が神戸市に寄付をして、その中に伊藤博文の像をつくったのです。少々、説明が長くなりましたが、その二代目の像は、アジア・太平洋戦争時機に供出され、鉄砲の弾になってしまいました。その後、再建の話はでていません。立派な台座だけが残っているのです。国会議事堂の上の部分と似ていますが、同じ設計者だそうです。)
(こんな立派な伊藤博文像でした。当時は大きなビルもなく、神戸が一望できたことでしょう・・。)
(台座の少し南にこんなモニュメントがあります)
(とこしえに平和を。1990年4月、兵庫県統一メーデー実行委員会がつくりました。戦争中、ここには高射砲台がありました。ここから、よく神戸市内が見渡せたのです。)
(公園の南入口的なとことにブロンズ像があります)
(右へ行くと中央図書館、左へ登ると公園です。)
(更に南に文化ホールがあります。ゆうさんは今年もオカリナフェスティバルにでます。8月30日、出番です。)
(文化ホールプレイガイドに宣伝がありました。入場料は、1000円、出演料は、3000円、ギャラではありmせん。出演者が払うのです。)
(近くに、神戸華僑がランプをはじめて持ち込んだという記念碑があります)
(孫文さんの像もあります)
(神戸にゆかりのある孫文先生をたたえています。)
(文化ホールの南に体育館があります。大学2、3年のころ、バトミントンに凝って通ったことがあります。)
(体育館前のモニュメントです。暑いけどがんばってます・・・。)
(図書館の少し東にもっこす本店があります。中央図書館内の青丘文庫http://ksyc.jp/sb/
の研究会のとき、ときどき食べにいきます。トッピングのネギは100円で、おわん1杯でます。)
(大倉山公園の最高峰?にある東屋です)
(そこからの景色は最高です。それほどのことは、という声もあります・・・・。)
(公園をでるとネコおばさんがきました)
(ネコの体重にあわせて?餌をわけています)
(行儀よくたべています)
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