ゆうさんの自転車/オカリナ・ブログ

飛田雄一の個人的なブログ、オカリナ、登山、自転車のことなどを書こうかな・・・

飛田雄一『極私的エッセイ―コロナと向き合いながら』(社会評論社)、プロローグ

2021-02-03 22:35:49 | コロナ自粛エッセイ
●プロローグ

 コロナ、こまったものだ。当初の二月ごろは、夏には収まるのかな、南京ツアーはできるのかななどと考えていた。しかし、そうではなかった。
 でも、コロナ自粛ばかりしてはいられない。エッセイを書くことにした。まずは、「極私的 ベ平連神戸事件oう顛末の記」を書いた。六月のことだ。武勇伝ではないが、無届デモで逮捕されたことなどを書きたかたのだ。書くと人に読んでもらいたくなる。神戸学生青年センターの印刷機で五〇部ほど印刷して配布した。おもしろいと言ってくれる人がいた。Facebookにもアップした。それなりの反響があった。
 そしてまた続きを書きたくなった。そして次のように小さな冊子を七冊となった。 本書の順番は書いた順となっており、時系列的には交錯している。

① 極私的 ベ平連神戸事件顛末の記
② 極私的 阪神淡路大震災の記録 
③ 極私的 「コリア・コリアンをめぐる市民運動」の記録
④ 極私的 南京への旅・ツアコンの記
⑤ 極私的 「青丘文庫」実録
⑥ 極私的「六甲古本市」全?記録
⑦ 極私的 ゴドウィン裁判 初・原告団長の記

 それぞれに適当部数を印刷して配布した。おかげでコロナ禍のもと、充実した日々をおくることができた。それぞれに「極私的」を冠しているように私的な記録であるが、それなりに貴重な体験でもあるようで、読者カード?も何枚か届いた。
 単行本としても出版したくなった。そして、こうしてそれが実現した次第だ。しかし、コロナ自粛エッセイを一段落して出版社に入稿すると、それはそれでまた書きたくなってくる。コロナ自粛への抵抗力?がついたのである。番外編を書いた。「オカリナ・ことはじめ」だ。これは、同じように小冊子に印刷して無料配布している。ご希望の方は連絡をいただければお送りする。

 ここで、時系列的に私の市民運動歴のようなものを概括的に書いてみようと思う。
 私は、一九六九年に大学に入学した団塊の世代の最後だ。「ベ平連神戸事件の顛末」で書いたように、学園闘争の最中に入学した。ベ平連神戸が在日朝鮮人にかかわっていたことから、学生時代にその権利擁護の活動にかかわった。また現在も活動を継続している朝鮮の歴史文化を研究する「むくげの会」は一九七一年一月スタートで、ベ平連神戸での活動の延長線上にある。機関誌の「むくげ通信」には、「植民地下朝鮮における抵抗運動を象徴する花の「むくげ(無窮花)」を会の名とする。朝鮮の言葉・歴史・文化を学ぶサークル」とある。当初は、半ば義務的に?勉強を始めたが、テーマの朝鮮そのものが面白くなり、現在まで続いている。むくげの会をテーマにエッセイを書こうともしたが、なにしろ一九七一年一月から今まで続いているのだから、そう簡単には書けない。来年一月には五〇周年となるので、そのときに書きたい?

 七〇年代は、私の二〇代。一九五〇年生まれだから計算しやすい。一九六九年に大学に入って、四年の学部を六年、二年の大学院修士課程を三年かかつて一九七八年に卒業した。一・五倍通ったことになる。「表裏で学部八年」という学生もいたので、ましな方だ? 大学院時代にはすでに神戸学生青年センターで週二、三回アルバイトをしていた。一九七八年四月、卒業してすぐセンターに就職した。
 「「コリア・コリアンをめぐる市民運動」の記録」に書いたが、七〇年代に在韓被爆者・孫振斗さん支援、申京煥裁判、民族差別と闘う連絡協議会(民闘連)などにかかわった。在日韓国人政治犯救援運動にもかかわった。一一・二二救援会の冊子『濁流に抗いて』は編集を担当し、題字も書いた。冊子としては一万部ほど発行した、われわれ市民運動業界ではベストセラー?だった。

 八〇年代、私は三〇代。一九八二年の教科書問題のときには、センターの朝鮮史セミナーでこの問題をとりあげて、中塚明先生の講演録に韓国の新聞記事を翻訳/収録した『教科書検定と朝鮮』を発行した。これもけっこう売れた。センター出版部は、最初の本、梶村秀樹『解放後の在日朝鮮人運動』(一九八〇年七月)が好評で、次々と何冊か発行した。売れる本もあれば、いい本ですねと言われながらもさっぱり売れない本もあった。
 八〇年代は、指紋押捺反対運動が展開された時期だ。兵庫で、林弘城、梁泰昊、金成日らが拒否をして、裁判にもとりくんだ。金成日さんの関連で、朝日新聞の小尻記者とはよくお会いした。金成日が釈放されたとき、署内で強制具によって指紋をとられた問題をスクープして全国版に記事を書いたのが小尻記者だった。一九八七年五月三日、朝日新聞阪神支局で小尻記者が殺害されたのは本当にショックだった。小尻記者の記事で最も注目された記事が金成日さんの記事だと言われていたので、私たちの心に大きな恐怖心を与えた。

 九〇年代、私の四〇代は、ゴドウィン裁判から始まった。くも膜下出血で入院したスリランカ人留学生・ゴドウィンさんの医療費をめぐる裁判だ。生活保護費でそれを支払うことをめぐる裁判で、被告は日本国/厚生省(当時)だった。「「コリア・コリアンをめぐる市民運動」の記録」で書いたが書き足らなくて、「ゴドウィン裁判 初・原告団長の記」を書いた。そのエッセイの最後はみなさんを失望させることになるかもしれない。
 九〇年代の大事件は私にとっても阪神淡路大震災(一九九五年一月一七日)だ。センターでアルバイトをしていた韓国人留学生のアイデアで、被災留学生への生活一時金支給などを行った。大変だったがとても充実した時期でもあった。留学生との餃子パーティ、キムチチゲパーティなどはいい思い出となっている。震災のおかげで生まれた六甲奨学基金は現在まで継続している。奨学金のための古本市は、今やセンター最大のイベントとなっている。二か月間で三百万円以上を稼ぐというのがなんといってもインパクトがある。古本市のことを「阪神淡路大震災の記録」で書いたが、書き足らなくて、「「六甲古本市」全?記録」を書いた。そこに古本市にノウハウのすべて?が収められている。
 古本市の評判を聞きつけたようで、○○刑務所の受刑者から手紙が来た。小さい字で本の題が二〇冊ほど書いてあった。代金を払うので送ってほしいとのことだった。ボランティアにそのリストを回して探してもらい何冊か送った。毎年のようにリクエストがきて、同じように本を探して送った。その彼から衆議院選挙のとき、選挙翌日の新聞五紙を送ってほしいと依頼が来た。新聞販売店を回って新聞集めて送った。
 しばらくして、刑務所事務官から手紙をともに新聞が送り返されてきた。新聞の差し入れは、○日以内と決まっており、すでに時期が過ぎているので返送するという。おかしい。彼の権利が侵害されている。不服申し立てもした。でもだめだった。せめて彼に、新聞を送たけれども理不尽な理由で返送されたことを伝えたかったがそれもできなかった。
 裁判でもしたかったが、それはそれで大変なので知り合いの弁護士にどうしたものかと相談した。京都弁護士会に人権侵害救済の申し立てをしてはどうか、とのことだった。するつもりだったが、時間的余裕がなくなりできなかった。残念だ。その後も彼から古本の依頼がくる。できるだけ探して送るようにはしている。

 「南京への旅・ツアコンの記」は、神戸・南京をむすぶ会のツアーの記録などだ。きっかけは一九九六年のゴールデンウイークの時期に、神戸王子ギャラリーで開いた「丸木位里・俊とニューヨークの中国人画家たちが描いた南京1937絵画展」。ボランティアが、現地南京を一度は訪問したいと結成した訪中団だ。それが回を重ねているのである。コロナがなければ二〇二〇年夏に第二四回目の訪中をしているはずだった。
 私は団の秘書長として参加している。最初は神戸・南京をむすぶ会の役職とおなじ「事務局長」だったが、中国では秘書長の方がいいと言われてそうなっている。旅の思い出はつきない。本書のエッセイのなかで一番の長文となっている。私は、『旅行作家な気分―コリア・中国から中央アジアへの旅―』(合同出版、二〇一七年一月)を出しているが、そこに中国の旅も多く収録されている。この本の題を「ツアコンの記」としたかったが、ライセンスをもたないもぐりのツアコンなので遠慮してこの書名にしたいきさつがある。今回は、もういいだろうと「ツアコンの記」とした。『旅行作家な気分』も読んでくださればうれしい。コロナも永遠に続くものではないので、南京ツアーもまた再開できるものと期待している。ツアコンは終わらない‥‥。

 また、一九九〇年から「朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える全国交流集会」が九九年まで一〇回開かれた。全国各地で開催され、多くの仲間との出会いがあった。最後は「内紛」により終わった。その内紛の恨みつらみ(そんなたいしたものではない)についても、「「コリア・コリアンをめぐる市民運動」の記録」に書いている。「偽装倒産」説もでたのだった。
 交流集会の延長線にあるともいえるのが、二〇〇五年七月の「強制動員真相究明ネットワーク」だ。遺骨返還、明治産業遺産の問題などに取り組み、現在も活動を継続している。

 二〇一〇年代は、私の六〇代になるが、還暦を考えることもなく動いている。阪神淡路大震災を契機にうまれたNGO神戸外国人救援ネットも活動を継続している。

 本書は極私的な市民運動の記録だ。コロナ自粛ではつまらないので、この機会に昔の資料を引っ張り出したりして書いた。「「青丘文庫」実録」はなじみがないかもしれないが、青丘文庫という図書館があること、青丘文庫研究会があることをぜひ知っていただきたいと思って書いた。

 私は、『現代日本 朝日人物事典』(朝日新聞社、一九九〇年一二月)の一部を書いているがそのおかげで?そこに私の名前もある。この事典のアマゾンの宣伝文は次のようなものだ。

「昭和を一日でも生きていた人を対象とした「現代日本人物事典」。発行が一九九〇年のため、実質上の昭和史人物事典。政治家や財界、文化勲章受章者といった人はもちろん俳優や歌手、新興宗教の教祖等まで。」
 私は歌手でも教祖でもないが、歌手ピーターの前にでてくる。「市民運動家」と紹介されている。なにか職業革命家のようだ。私のことを、趣味と運動をいっしょにできて、うらやましいという友人がいる。が、そんなことはない。でもそのようにいわれることは幸せなのかな、と思ったりする。

 六〇を過ぎたら論文を書くよりエッセイを書く方が有益だと著名な学者がいわれたそうだ。わたしも、そうしてみた。有益かどうか自信がない。でも極私的なこの本が、少しは役に立つことを願っている。

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