韓国から新しい本が送られてきた。このような本も今だからこそ必要だと思う。
飛田の原稿は、2011年のソウルでのセミナーの発表を原稿化したものだ。
翻訳は、編者の金廣烈さん。ごくろうさまでした。
飛田の原稿をそのままここに転載させていただく。
金廣烈編著『日本市民の歴史反省運動-平和的な韓日関係のための提案』
(2013.10.31、ソウル、セイイン出版)
(同目次)
2011年 韓-日 合同学術セミナー
「私が見た日本の戦後補償運動の役割と課題」 飛田雄一(神戸学生青年センター)
1.はじめに
私の個人的な体験が有益なものになるかどうか心もとないが、書いてみようと思う。
私は、1950年生まれで、1969年に大学に入学している。日本では学生運動の盛んな時期で、私も学生運動に参与し、またベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)の活動にもかかわった。当時、在日外国人への取り締まりを強化する「出入国管理法案」が上程され、神戸のベ平連もその反対運動に参加していた。また神戸入管事務所には、任錫均、丁勲相らが拘束されていたことから、その支援活動にもかかわった。そのような活動のなかで私は、個人的にも在日韓国・朝鮮人の問題にも大きな関心を寄せるようになった。
神戸ベ平連内の研究会としてできた「差別抑圧研究会」が、1971年1月、朝鮮の文化・歴史を勉強するグループとして「むくげの会」をつくる。同会は、現在も活動を継続している。そのような時期に「孫振斗事件」がおこった。
2.戦後補償運動の嚆矢としての「孫振斗事件」
孫振斗は1927年大阪生まれ。1944年家族とともに広島市南観音町へ。父の仕事を手伝っていた関係で、皆実町の専売局構内にあった電信電話局倉庫の中で被爆した。父親は被爆三年目に死亡。日本へとどまった孫さんは、51年、外国人登録令違反で韓国へ強制送還。その後、密人国と強制送還を繰り返し、1970年12月、逮捕された時、微熱や貧血、全身の倦怠感に悩まされていた孫さんは、「韓国では適当な治療施設もなく、原爆症の不安にかられて密人国した。私の身体をこんなにしたのは日本政府なのだから、責任を持って治してくれ」と訴えた。これを契機に孫さん支援の運動が各地で盛り上がった。
1971年、孫さんは福岡県に被爆者健康手帳の交付を申請するが、福岡県は「外国人被爆者には交付でさない」と却下。そのため孫さんは72年10月、福岡県と厚生省を相手取り、「被爆者健康手帳申請却下処分取り消し訴訟」を提訴した。
この裁判は、在韓被爆者に対する日本政府の戦争責任を追及して闘われ、そして、78年3月30日、ついに最高裁は「『原爆医療法』は、被爆による健康上の障害の特異性と重大性のゆえに、その救済について内外人を区別すべきではないとしたものにほかならず、同法が国家補償の趣旨をあわせもつもの」と解し、「被爆者の置かれている特別な健康状態に着目して、これを救済するという人道的目的の立法である」と位置づけ、孫さん全面勝利の判決を下した。(以上は、在韓被爆者が語る被爆50年-求められる戦後補償-〈改訂版〉ホームページより)
孫振斗さんを支援するグループは、福岡、広島、大阪、東京に作られ、私も大阪の事務局メンバーとしてかかわった。福岡の伊藤ルイさん、広島では、後に広島市長になった平岡敬さんらも支援活動に参加した。
3.「朝鮮人強制連行」調査の活動
日本における朝鮮人強制連行に関する研究は、1965年に刊行された朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』から始まったといえる。1970年代には、朝鮮総連を中心とした朝鮮人強制連行真相調査団が、全国的な調査をおこない、その成果が何冊かの本にまとめられている。
80年代には全国的な調査は行われなかったが、朴慶植さんの60年代に協力したメンバーは、70年代の真相調査団の活動に協力した方々の各地域での調査活動は継続されていた。
1990年代には、1990年5月の韓国盧武鉉大統領の訪日時、日本政府が資料調査に協力する旨の発言をし、その後、労働省の倉庫に残っていた、いわゆる「厚生省名簿」の一部が韓国政府に引き渡されるということもあった。このときの動きは「名簿探し」に集中し過ぎた感もあるが、朝鮮人強制連行調査活動を全国的に推進させるのに一定の役割を果たした。
そして、1990年代には、全国各地で毎夏、「朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える全国交流集会」が計10回開催された。1990年の第1回、愛知県(名古屋市)から、第2回兵庫県(西宮市、神戸市、1991年)、第3回広島県(呉市、1992年)、第4回奈良県(信貴山王蔵院、1993年)、第5回長野県(長野市松代町、1994年)、大阪府(高槻市、1995年)、第7回岐阜県(岐阜市、1996年)、第8回島根県(松江市、1997年)、第9回石川県(金沢市、1998年)、第10回(熊本市、1999年)と開かれた。この全国交流集会は、同集会世話人会が主催するものだった。その後、それぞれの団体が呼びかけ主催する形態で、2000年9月に神戸、2001年9月に大阪府茨木市、2002年9月に秋田県花岡、2004年10月に北海道で開かれ、2006年には、その延長線上に韓国済州島で旧日本軍の戦争遺跡を訪ねるフィールドワークが行われた。
4.「強制動員真相究明ネットワーク」の活動
2004年2月韓国では「日帝強占下強制動員被害真相糾明等に関する特別法」が制定され、これに基づき11月「日帝強占下強制動員被害真相究明委員会」が設立された。そして、「戦後60周年」の2005年2月より強制動員の被害申告や真相究明調査の申請が始まり、既に4月には、調査班が来日し予備調査を開始した。
このような韓国側の努力に日本政府が積極的に呼応すべきだが、そのように展開しない状況のもとで日本側では民間の立場から韓国の「真相究明委員会」の日本での調査や遺骨の収集等を支援することをめざして、2005年7月、「強制動員真相究明ネットワーク(共同代表、上杉 聡、内海愛子、飛田雄一http://www.ksyc.jp/sinsou-net/)がつくられた。
同ネットワークは、①日本政府に、政府および公的機関、そして企業の保有する強制動員関係の資料の提示を促進することを求める活動をする。②日本における強制動員の真相究明のための活動を通し、日本の世論が強制動員問題に関心を向けるようにする。③ 韓国で構成される被害者団体を含む「市民ネット」と連帯し、交流や可能な行事を行う。④日本における真相究明法である「恒久平和調査局設置法案」の制定運動に協力する。⑤ネットワークで集約された資料を保管・展示する空間を作る、ことを目標に活動を展開している。
最近では、2011.5.28~29には、神戸学生青年センターで、「日本の朝鮮植民地支配と強制連行」をテーマに強制動員真相究明全国研究集会を開催している。
5.戦後補償を求める裁判/立法要求の運動
多くの裁判が提起され、私自身もそのいくつかにかかわった。地方裁判所レベルで少し期待をもてる判決があっても、最高裁判所でことごとくくつがえされているのが現状である。
具体的には、以下のものを参照していただきたい。
・ Archives > フォーラム:在日2001 > 《課題別報告》在日人権獲得闘争の到達点とこれから 1 在日戦後補償運動 †小椋千鶴子(在日の戦後補償を求める会)(インターネット検索可)
・ 「 戦後補償立法運動の現状」朴在哲(「戦争責任研究」30号)(Last update 2001年1月28日)http://www.kanpusaiban.net/lippouka2.htm
・ 「表 戦後補償裁判一覧表」 (2003年5月現在)
http://space.geocities.jp/japanwarres/center/hodo/hodo07.htm
「立法要求の運動」の先駆けが民族差別と闘う連絡協議会(民闘連)の「在日旧植民地出身者戦後補償・人権保障法案」(1988年)だったかも知れない。民闘連は、日立就職差別反対運動の発展として作られたもので、1970年代の国籍差別撤廃運動などをになったグループ。在日朝鮮人の人権保障のための法案作成論議の結論として人権保障と戦後補償がセットである必要があるいうことになった。
6.朝鮮人の戦後補償関連するふたつのドキュメンタリー(日本)
<その1>大島渚監督「忘れられた皇軍」(20分)1963年。
東京で街頭活動をする朝鮮人傷痍軍人のグループをテーマにしたドキュメンタリーで、日本政府から補償を受けることができなかった。そこで日本政府を訪問するが、そこでは、「韓国政府の問題だ」と言われることになる。今度は、日本にある韓国政府の機関を訪ねるが、そこでは、「日本軍の兵士として障害を負ったのだから日本政府の責任だ」と言われる。
日本人の軍人には軍人恩給が支給されているが、朝鮮人には支給されていない。そしてその一方で、巣鴨刑務所に収監されていた朝鮮人戦犯が1952.4.28(サンフランシスコ講和条約発効)により、「日本人」から外国人になったことを理由に釈放を要求したが、それは受け入れられなかった。
ドキュメンタリーに登場する石成基さんは、日本政府を相手に裁判を起こしている。(1921年生まれ。2001年8月30日に逝去。遺族が訴訟を継続。)
<その2> ビデオ、1991年8月15日 NHKスペシャル
「チョウ・ムンサン(趙文相)の遺書―シンガポールBC級戦犯裁判―」(55分)。
植民地支配下の朝鮮人の中には日本軍の軍人・軍属となった人もいる。クリスチャンである趙文相は、捕虜監視員として働かされる。そして、捕虜虐待の罪で戦犯に問われて戦後、軍事裁判で死刑判決を受け、処刑された。趙文相さんは死の直前まで遺書を書き続けたが、その遺書は、密かに友人によって持ち出された。また、オーストラリアの公文書館に趙文相の裁判記録が残されていたのである。それらの資料をもとに、関係者の証言も収録してこのドキュメンタリーは作られている。(飛田はこのDVDを提供することができある。)
趙文相(チョウムンサン)、日本名・平原守矩。
1947年2月、チャンギー刑務所にて絞首刑。享年26歳。
日本人上官の命令を捕虜に伝える通訳だったため捕虜の憎悪を人一倍集めた。獄中で彼は、処刑の数分前まで心の揺れを長文の遺書に綴った。
写真は、http://www.ne.jp/asahi/nadja/bc/framePHOTOj.htmlより
遺書と手記は、http://kbcq.web.fc2.com/shogen/shogen1.html で読むことができる。
7.まとめ
「戦後65年」となっているが、まだ具体的に歴史の検証が可能な部分もある。この歴史検証の努力を引き続き行わなければならない。
また、「記憶」し「記録」することが重要だ。神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会が強制連行を記憶するために「神戸港 平和の碑」を作ったが、そこで語られたのは、「心に刻み石に刻む」ということだ。記憶が記録化され、それが見える形で残されることも大切だ。またそれは、フィールドワーク(踏査)するのに大切なものだ。特に若い世代に具体的な歴史の事実を教えるためにもモニュメントがそのきっかけとなりうると思う。
先に紹介したように2006年に済州島の旧日本軍施設のフィールドワークも行われたが、このように強制連行の問題は日本列島だけでなく、地域的な広がり必要なことである。さらに、朝鮮半島内における強制連行の調査研究とも関連させる重層的な研究が必要である。
更に、日本の戦後補償の問題は、朝鮮半島以外の中国、東アジアの戦後補償運動との連携が必要であり、ドイツ等諸外国の戦後補償問題との関連も視野にいれなければならない。
近年、中国人強制連行の問題は、関連企業との和解の動きが一部で始まっているが、この動きも朝鮮人強制連行問題に関連してくる問題である。
日本と朝鮮民主主義人民共和国との国交正常化が図られる必要があるが、その過程では、1965年締結の日韓会談で、日本の植民地支配が正しく問われなかったことを思い起こされなければならない。
今後も日韓双方の研究(者)交流が重要であり映像も含めて史料、資料を共有し、研究を進めていくことが求められている。
飛田の原稿は、2011年のソウルでのセミナーの発表を原稿化したものだ。
翻訳は、編者の金廣烈さん。ごくろうさまでした。
飛田の原稿をそのままここに転載させていただく。
金廣烈編著『日本市民の歴史反省運動-平和的な韓日関係のための提案』
(2013.10.31、ソウル、セイイン出版)
(同目次)
2011年 韓-日 合同学術セミナー
「私が見た日本の戦後補償運動の役割と課題」 飛田雄一(神戸学生青年センター)
1.はじめに
私の個人的な体験が有益なものになるかどうか心もとないが、書いてみようと思う。
私は、1950年生まれで、1969年に大学に入学している。日本では学生運動の盛んな時期で、私も学生運動に参与し、またベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)の活動にもかかわった。当時、在日外国人への取り締まりを強化する「出入国管理法案」が上程され、神戸のベ平連もその反対運動に参加していた。また神戸入管事務所には、任錫均、丁勲相らが拘束されていたことから、その支援活動にもかかわった。そのような活動のなかで私は、個人的にも在日韓国・朝鮮人の問題にも大きな関心を寄せるようになった。
神戸ベ平連内の研究会としてできた「差別抑圧研究会」が、1971年1月、朝鮮の文化・歴史を勉強するグループとして「むくげの会」をつくる。同会は、現在も活動を継続している。そのような時期に「孫振斗事件」がおこった。
2.戦後補償運動の嚆矢としての「孫振斗事件」
孫振斗は1927年大阪生まれ。1944年家族とともに広島市南観音町へ。父の仕事を手伝っていた関係で、皆実町の専売局構内にあった電信電話局倉庫の中で被爆した。父親は被爆三年目に死亡。日本へとどまった孫さんは、51年、外国人登録令違反で韓国へ強制送還。その後、密人国と強制送還を繰り返し、1970年12月、逮捕された時、微熱や貧血、全身の倦怠感に悩まされていた孫さんは、「韓国では適当な治療施設もなく、原爆症の不安にかられて密人国した。私の身体をこんなにしたのは日本政府なのだから、責任を持って治してくれ」と訴えた。これを契機に孫さん支援の運動が各地で盛り上がった。
1971年、孫さんは福岡県に被爆者健康手帳の交付を申請するが、福岡県は「外国人被爆者には交付でさない」と却下。そのため孫さんは72年10月、福岡県と厚生省を相手取り、「被爆者健康手帳申請却下処分取り消し訴訟」を提訴した。
この裁判は、在韓被爆者に対する日本政府の戦争責任を追及して闘われ、そして、78年3月30日、ついに最高裁は「『原爆医療法』は、被爆による健康上の障害の特異性と重大性のゆえに、その救済について内外人を区別すべきではないとしたものにほかならず、同法が国家補償の趣旨をあわせもつもの」と解し、「被爆者の置かれている特別な健康状態に着目して、これを救済するという人道的目的の立法である」と位置づけ、孫さん全面勝利の判決を下した。(以上は、在韓被爆者が語る被爆50年-求められる戦後補償-〈改訂版〉ホームページより)
孫振斗さんを支援するグループは、福岡、広島、大阪、東京に作られ、私も大阪の事務局メンバーとしてかかわった。福岡の伊藤ルイさん、広島では、後に広島市長になった平岡敬さんらも支援活動に参加した。
3.「朝鮮人強制連行」調査の活動
日本における朝鮮人強制連行に関する研究は、1965年に刊行された朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』から始まったといえる。1970年代には、朝鮮総連を中心とした朝鮮人強制連行真相調査団が、全国的な調査をおこない、その成果が何冊かの本にまとめられている。
80年代には全国的な調査は行われなかったが、朴慶植さんの60年代に協力したメンバーは、70年代の真相調査団の活動に協力した方々の各地域での調査活動は継続されていた。
1990年代には、1990年5月の韓国盧武鉉大統領の訪日時、日本政府が資料調査に協力する旨の発言をし、その後、労働省の倉庫に残っていた、いわゆる「厚生省名簿」の一部が韓国政府に引き渡されるということもあった。このときの動きは「名簿探し」に集中し過ぎた感もあるが、朝鮮人強制連行調査活動を全国的に推進させるのに一定の役割を果たした。
そして、1990年代には、全国各地で毎夏、「朝鮮人・中国人強制連行・強制労働を考える全国交流集会」が計10回開催された。1990年の第1回、愛知県(名古屋市)から、第2回兵庫県(西宮市、神戸市、1991年)、第3回広島県(呉市、1992年)、第4回奈良県(信貴山王蔵院、1993年)、第5回長野県(長野市松代町、1994年)、大阪府(高槻市、1995年)、第7回岐阜県(岐阜市、1996年)、第8回島根県(松江市、1997年)、第9回石川県(金沢市、1998年)、第10回(熊本市、1999年)と開かれた。この全国交流集会は、同集会世話人会が主催するものだった。その後、それぞれの団体が呼びかけ主催する形態で、2000年9月に神戸、2001年9月に大阪府茨木市、2002年9月に秋田県花岡、2004年10月に北海道で開かれ、2006年には、その延長線上に韓国済州島で旧日本軍の戦争遺跡を訪ねるフィールドワークが行われた。
4.「強制動員真相究明ネットワーク」の活動
2004年2月韓国では「日帝強占下強制動員被害真相糾明等に関する特別法」が制定され、これに基づき11月「日帝強占下強制動員被害真相究明委員会」が設立された。そして、「戦後60周年」の2005年2月より強制動員の被害申告や真相究明調査の申請が始まり、既に4月には、調査班が来日し予備調査を開始した。
このような韓国側の努力に日本政府が積極的に呼応すべきだが、そのように展開しない状況のもとで日本側では民間の立場から韓国の「真相究明委員会」の日本での調査や遺骨の収集等を支援することをめざして、2005年7月、「強制動員真相究明ネットワーク(共同代表、上杉 聡、内海愛子、飛田雄一http://www.ksyc.jp/sinsou-net/)がつくられた。
同ネットワークは、①日本政府に、政府および公的機関、そして企業の保有する強制動員関係の資料の提示を促進することを求める活動をする。②日本における強制動員の真相究明のための活動を通し、日本の世論が強制動員問題に関心を向けるようにする。③ 韓国で構成される被害者団体を含む「市民ネット」と連帯し、交流や可能な行事を行う。④日本における真相究明法である「恒久平和調査局設置法案」の制定運動に協力する。⑤ネットワークで集約された資料を保管・展示する空間を作る、ことを目標に活動を展開している。
最近では、2011.5.28~29には、神戸学生青年センターで、「日本の朝鮮植民地支配と強制連行」をテーマに強制動員真相究明全国研究集会を開催している。
5.戦後補償を求める裁判/立法要求の運動
多くの裁判が提起され、私自身もそのいくつかにかかわった。地方裁判所レベルで少し期待をもてる判決があっても、最高裁判所でことごとくくつがえされているのが現状である。
具体的には、以下のものを参照していただきたい。
・ Archives > フォーラム:在日2001 > 《課題別報告》在日人権獲得闘争の到達点とこれから 1 在日戦後補償運動 †小椋千鶴子(在日の戦後補償を求める会)(インターネット検索可)
・ 「 戦後補償立法運動の現状」朴在哲(「戦争責任研究」30号)(Last update 2001年1月28日)http://www.kanpusaiban.net/lippouka2.htm
・ 「表 戦後補償裁判一覧表」 (2003年5月現在)
http://space.geocities.jp/japanwarres/center/hodo/hodo07.htm
「立法要求の運動」の先駆けが民族差別と闘う連絡協議会(民闘連)の「在日旧植民地出身者戦後補償・人権保障法案」(1988年)だったかも知れない。民闘連は、日立就職差別反対運動の発展として作られたもので、1970年代の国籍差別撤廃運動などをになったグループ。在日朝鮮人の人権保障のための法案作成論議の結論として人権保障と戦後補償がセットである必要があるいうことになった。
6.朝鮮人の戦後補償関連するふたつのドキュメンタリー(日本)
<その1>大島渚監督「忘れられた皇軍」(20分)1963年。
東京で街頭活動をする朝鮮人傷痍軍人のグループをテーマにしたドキュメンタリーで、日本政府から補償を受けることができなかった。そこで日本政府を訪問するが、そこでは、「韓国政府の問題だ」と言われることになる。今度は、日本にある韓国政府の機関を訪ねるが、そこでは、「日本軍の兵士として障害を負ったのだから日本政府の責任だ」と言われる。
日本人の軍人には軍人恩給が支給されているが、朝鮮人には支給されていない。そしてその一方で、巣鴨刑務所に収監されていた朝鮮人戦犯が1952.4.28(サンフランシスコ講和条約発効)により、「日本人」から外国人になったことを理由に釈放を要求したが、それは受け入れられなかった。
ドキュメンタリーに登場する石成基さんは、日本政府を相手に裁判を起こしている。(1921年生まれ。2001年8月30日に逝去。遺族が訴訟を継続。)
<その2> ビデオ、1991年8月15日 NHKスペシャル
「チョウ・ムンサン(趙文相)の遺書―シンガポールBC級戦犯裁判―」(55分)。
植民地支配下の朝鮮人の中には日本軍の軍人・軍属となった人もいる。クリスチャンである趙文相は、捕虜監視員として働かされる。そして、捕虜虐待の罪で戦犯に問われて戦後、軍事裁判で死刑判決を受け、処刑された。趙文相さんは死の直前まで遺書を書き続けたが、その遺書は、密かに友人によって持ち出された。また、オーストラリアの公文書館に趙文相の裁判記録が残されていたのである。それらの資料をもとに、関係者の証言も収録してこのドキュメンタリーは作られている。(飛田はこのDVDを提供することができある。)
趙文相(チョウムンサン)、日本名・平原守矩。
1947年2月、チャンギー刑務所にて絞首刑。享年26歳。
日本人上官の命令を捕虜に伝える通訳だったため捕虜の憎悪を人一倍集めた。獄中で彼は、処刑の数分前まで心の揺れを長文の遺書に綴った。
写真は、http://www.ne.jp/asahi/nadja/bc/framePHOTOj.htmlより
遺書と手記は、http://kbcq.web.fc2.com/shogen/shogen1.html で読むことができる。
7.まとめ
「戦後65年」となっているが、まだ具体的に歴史の検証が可能な部分もある。この歴史検証の努力を引き続き行わなければならない。
また、「記憶」し「記録」することが重要だ。神戸港における戦時下朝鮮人・中国人強制連行を調査する会が強制連行を記憶するために「神戸港 平和の碑」を作ったが、そこで語られたのは、「心に刻み石に刻む」ということだ。記憶が記録化され、それが見える形で残されることも大切だ。またそれは、フィールドワーク(踏査)するのに大切なものだ。特に若い世代に具体的な歴史の事実を教えるためにもモニュメントがそのきっかけとなりうると思う。
先に紹介したように2006年に済州島の旧日本軍施設のフィールドワークも行われたが、このように強制連行の問題は日本列島だけでなく、地域的な広がり必要なことである。さらに、朝鮮半島内における強制連行の調査研究とも関連させる重層的な研究が必要である。
更に、日本の戦後補償の問題は、朝鮮半島以外の中国、東アジアの戦後補償運動との連携が必要であり、ドイツ等諸外国の戦後補償問題との関連も視野にいれなければならない。
近年、中国人強制連行の問題は、関連企業との和解の動きが一部で始まっているが、この動きも朝鮮人強制連行問題に関連してくる問題である。
日本と朝鮮民主主義人民共和国との国交正常化が図られる必要があるが、その過程では、1965年締結の日韓会談で、日本の植民地支配が正しく問われなかったことを思い起こされなければならない。
今後も日韓双方の研究(者)交流が重要であり映像も含めて史料、資料を共有し、研究を進めていくことが求められている。
強制徴用や捕虜に対する待遇に対とかの罪と責任に関して日本だからそっちならわかるんですが
そもそも原爆被爆に関しては日本の責任ではなくアメリカなわけで、アメリカに求めるのが筋じゃないかと
日本はサンフランシスコ条約で放棄してるからしゃーなく日本政府がやってる面があるわけだし
被爆者保証に関してはだしてくれそうなとこに因縁つけてるようにしか思えない
何故韓国政府は朝鮮人被爆者と一緒になって日本政府が補償するようにという運動に支援するのでしょうか?
そんな迂遠な方向ではなく、韓国政府が自国民の福祉と医療に責任を持つべきではないか。
朝鮮戦争前後の極端に貧困な韓国が事実上それが不可能であっただろうことはともかくとして、OECD加盟国、武器や原発を輸出する国、日本のソニーやパナソニックも敵わない家電半導体輸出国、世界有数の自動車輸出大国の一つの韓国政府がどうして自国民の福祉医療の面倒を見ずに、日本政府への要求突き付けにばかり血道をあげているのか?
ここに所謂「反日」が韓国政府側の思惑であり、朝鮮人自身の日本差別や復讐心、排外主義があるのであり、甘やかして居れば日韓双方に(日本側にも対抗的に所謂嫌韓がはびこる)善隣関係が壊れる要因となると思います。
韓国政府には誠実に日本への謝罪と、韓国人への説明をすることを求めたい。