秀山の俳句写真日記

日々の生活、旅先での出逢い・思いを俳句、写真、文にした徒然日記です

1300年前の写経が・・・

2022年10月28日 17時32分37秒 | 日記

天皇の 個性あふるる 写経眼前
       東博 伝聖武天皇筆 賢愚経残巻

 この経典は今から1300年前のものです。あの聖武天皇の直筆と伝えられているものです。この紙も墨の字も1300年の時の流れをまったく感じさせない新鮮さです。
 文字の線は太く繊細、撥ねは美しく、且つその時の心の緊張、気分の爽快感さえ感じます。文字は形よくデンとしています。
 聖武天皇は歴史書や古代小説でしか知りませんでした。この「字」、「字の並び」を通し、聖武天皇のイメージが変わりました。
 1300年前の聖武天皇を今、イメージしています。1300年間、この写経を残し続けてくれた人々に感謝です。


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国宝絵巻を眼前に・・・

2022年10月28日 15時56分31秒 | 日記
表情の 活写 国宝絵巻かな
     東博 平治物語絵巻(六波羅行幸巻)
 
 
 
 今から800年もの前の絵巻を眼前にし、しかも、単眼鏡で詳細をじっくりと観ていますと、その時の制作者の息遣い、筆遣いまで伝わってくるように思えます。
 この絵巻物の場面は、1159年の平治の乱で、二条天皇が源義朝らにより幽閉された内裏から脱出をはかり,清盛の六波羅邸に逃れようとしているところです。武士たちが簾をはね上げてのぞいた中には、女房姿に変装した天皇の衣装の一部が見えます。
この絵巻物が描いている歴史を少し紐解きますと、平治の乱は保元の乱(1156年)に続いて起こりました。
保元の乱では、第77代後白河天皇と崇徳上皇とが対立。後白河天皇が勝利し治天の君(ちてんのきみ)として実権を握りました。
後白河天皇は1158年に二条天皇に譲位し上皇となり、院政を敷きます。
 その後、後白河上皇と二条天皇が対立し、公家、武士も加わる権力争いとなり、平治の乱が勃発しました。上皇、天皇は生き残ったものの、両派の公家・武家の側近はほぼ壊滅し、清盛率いる平氏一門の一人勝ちだったようです。この乱以降、後白河院政の下で、「平家にあらずんば人にあらず」(平家物語・平時忠の言)の世になっていきます。
 歴史は粋なもので、「驕れる者久しからず ただ春の夜の夢の如し」も、また真なり。(同じく平家物語冒頭・祇園精舎の鐘の声、・・・)

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予約制でも長の行列

2022年10月28日 01時48分59秒 | 日記

予約制でも 行列東博 国宝展

 

 この日は朝一番入場の0930の予約が取れず、1230入場でしたので、この長い待ち行列だったのかもしれません。
 日本の国宝の総数は文化庁HPによれば1131件です。その内、東博が89件所有とのことで、開催期間中3回行けば89件の国宝すべてにお目にかかれるとのことです。
 今回、印象に残った国宝は「松林図屏風」、「平治物語絵巻 六波羅僥倖巻」、「伝聖武天皇筆 賢愚経残巻」、「埴輪 桂甲の武人」でした。


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明治人に敬服

2022年10月28日 00時22分43秒 | 日記
東博史 知りて敬服 明治人
     東博 創立150周年記念国宝展
 
 
 最近放映されている東京国立博物館創立150周年記念国宝展の紹介テレビ番組の一つで、日本の「博物館」の祖である東博が、薩摩藩出身の吉田久成氏のパッション、熱い心で明治5年(1872年)に創設されたということを初めて知りました。
 吉田氏は1865年に薩摩藩英国留学生15名を率いて英国留学に出発。1867年のパリ万国博覧会にも参加。このヨーロッパ滞在中に大英博物館などを見学し、当時日本にはなかった博物館事業の重要性を認識したとのことです。1868年の維新改革以降の廃仏毀釈の流れの中で多くの美術品が破壊、また海外に流出していくのを惜しみ、国家財政が極めて厳しい中で、博物館創設の必要性を政界に訴えました。そして、種々の困難を乗り越えて明治5年に東京・湯島聖堂大成殿を「文部省博物館」として「湯島聖堂博覧会」を開催したとのことです。
 明治維新直後は新しい国家作りに国を挙げて取り組んでいる中、日本の国の文化財を収集保護して国民に展覧するという即時的に利益をもたらさない事業に、時の政府は極めて冷淡であったろうと想像されます。そのような中で博物館創設のために国家から資金を引き出したのが、明治人、岩田氏の能力と熱い心であり、彼が存在していなかったら、日本の博物館作りはもっと遅れていたであろうと思われます。
 明治の人はたいしたものです。感謝、敬服であります。

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