今から416年前の本日、天下分け目の大合戦がありました。
1600年のことです。
まず、1598年に天下人であった太閤豊臣秀吉が死没します。
以後政治は五大老、五奉行による合議制になります。
五大老の筆頭格である徳川家康は、伊達政宗の伊達家と勝手に婚姻関係を結んでしまったりしたことで、
揉め事が起き始めました。
その時に唯一徳川家康に意見を言えたのが前田利家と言っても過言ではありません。
その前田利家が1599年に死没したことにより、五大老、五奉行を二分する形が出来上がったわけです。
五大老の一人である上杉景勝もまた、五奉行の石田三成と徳川家康に敵対しました。
それにより、家康は上杉家に対し色々と難癖をつけ始めます。
その時に上杉家から徳川家康宛に送った書状は、直江状と言われ、
上杉家の重臣である直江兼続によって書かれたとあります。
この直江状は徳川家康のつけてきた難癖を痛烈に批判する内容であり、家康は激怒したとあります。
これにより、徳川家康は上杉征伐を決め、北上していくわけです。
この、徳川家康が北上していく過程で石田三成が挙兵したことによって、徳川家康はすぐに西へ向かい、
関ヶ原にて両軍が対峙したことによって起こったのが
関ヶ原の戦いです。
勝ったほうが次の天下人となり得る天下分け目の戦いと言われるほどの大戦でした。
しかし、この戦いは徳川家康の東軍が大勝利に終わります。
しかも、ほんの半日で戦は終わってしまいました。
天下分け目にしてはあまりにもあっけない幕切れでした。
なぜこのようなことになってしまったのでしょうか??
今回はここを考察致したいと思います。
つづく
1600年のことです。
まず、1598年に天下人であった太閤豊臣秀吉が死没します。
以後政治は五大老、五奉行による合議制になります。
五大老の筆頭格である徳川家康は、伊達政宗の伊達家と勝手に婚姻関係を結んでしまったりしたことで、
揉め事が起き始めました。
その時に唯一徳川家康に意見を言えたのが前田利家と言っても過言ではありません。
その前田利家が1599年に死没したことにより、五大老、五奉行を二分する形が出来上がったわけです。
五大老の一人である上杉景勝もまた、五奉行の石田三成と徳川家康に敵対しました。
それにより、家康は上杉家に対し色々と難癖をつけ始めます。
その時に上杉家から徳川家康宛に送った書状は、直江状と言われ、
上杉家の重臣である直江兼続によって書かれたとあります。
この直江状は徳川家康のつけてきた難癖を痛烈に批判する内容であり、家康は激怒したとあります。
これにより、徳川家康は上杉征伐を決め、北上していくわけです。
この、徳川家康が北上していく過程で石田三成が挙兵したことによって、徳川家康はすぐに西へ向かい、
関ヶ原にて両軍が対峙したことによって起こったのが
関ヶ原の戦いです。
勝ったほうが次の天下人となり得る天下分け目の戦いと言われるほどの大戦でした。
しかし、この戦いは徳川家康の東軍が大勝利に終わります。
しかも、ほんの半日で戦は終わってしまいました。
天下分け目にしてはあまりにもあっけない幕切れでした。
なぜこのようなことになってしまったのでしょうか??
今回はここを考察致したいと思います。
つづく
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