8月15日。
この日は日本人にとって特別な日と考えています。
1945年の 正午、昭和天皇が「戦争終結の詔書」を読み上げる玉音放送により、ポツダム宣言受諾・連合国への降伏が日本国民に伝えられました。
これにより、日本の敗戦(終戦)の日 としています。
・玉音放送(ぎょくおんほうそう)とは??
→天皇の肉声(玉音)を放送することをいう。特に1945年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)に、社団法人日本放送協会(当時)にてラジオ放送された、昭和天皇による終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)の音読放送を指すことが多く、この放送は、大東亜戦争(太平洋戦争)における日本の降伏を国民(当時は「臣民」と呼んだ)に伝えるものであった。
この日は正午に黙祷を行っています。
本日は靖国神社や、日本武道館で開かれた政府主催の全国戦没者追悼式で黙祷を行いました。
とても多くの方々が参拝にいらしていました。
昇殿をし、参拝をすることもできます。
・二拝
・二拍手
・最後に一拝
が基本的な参拝の作法になります。
イベントも行われていました。
この炎天下の中、すごい人だかりでした。
神社の回りは、さまざまな思想がありました。
現政権のこと、過去の総理談話のこと、現在国会で通ろうとしている法案のこと、中国共産党のこと、教科書問題のこと。etc。
こうして見て回ってみると、日本て平和なようで、知らないうちに色々なことが起きているのだな。と実感しました。
靖国神社の戦争別合祀者数
・明治維新 ・・・7751人
・西南戦争 ・・・6971人
・日清戦争 ・・・13619人
・台湾征伐 ・・・1130人
・北清事変 ・・・1256人
・日露戦争 ・・・88429人
・第一次世界大戦・・・4850人
・済南事変 ・・・185人
・満州事変 ・・・17176人
・支那事変 ・・・191250人
・大東亜戦争 ・・・2133915人
計・・・・・・・・・2466532人
約250万人のうち、大多数が大東亜戦争時の死者です。
そもそも大東亜戦争って何??という疑問がありました。
太平洋戦争として習ったことでしたので。
では、そもそもなぜ、呼称が変わったのでしょう??
昭和16年12月10日、いわゆる真珠湾攻撃の2日後です。
「大東亜戦争」と呼称することが閣議決定されました。
これは、陸軍が提案したものです。
海軍は「太平洋戦争」と考案していました。
この二つの考案に非常に深い意味があり、
「大東亜戦争」は、当時の内閣情報局の発表によると
「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と呼称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして戦争地域を主として大東亜のみに限定する意味にあらず」
と発表されています。
大東亜新秩序とは、日本、中国、満州国の協力のもと、に建設される東アジアの国際秩序の理念を表し、当時のアジアは日本、中国、、を抜いてほとんどが植民地でしたので、欧米の人種差別意識に基づくアジア被植民地体制を打破し、人種、民族平等による新しいアジア国際の真秩序を目指すものを言う。
よって、自衛とアジアの解放という戦争目的を明確に示した呼称となります。
「太平洋戦争」は、海軍の発表によると、
今次の戦争は、主に対米戦争であり、主戦場たる太平洋で決定的に戦い全戦力を傾注しなければならない。
という戦争指導上の方針に基づく主張から出た呼称でした。
現在広く使われている「太平洋戦争」は、また違った意味だそうです。
そもそも海軍の主張ではないものだそうです。
敗戦後、日本を占領したGHQは、昭和20年12月15日「神道指令」を発し、その中で、大東亜戦争などの用語を「国家神道、軍国主義、過激なる国家主義」を連想させるとして使用停止を命令した。 とあります。
その時に特に、新しい呼称は用意していなかったといいます。
代わりに各新聞社が連合軍司令部提供の「太平洋戦争史」を連載させ、検閲によって大東亜戦争は全て太平洋戦争へ書き換えさせた。
この、太平洋戦争史では、日本の「侵略戦争」を遂行した「戦争仕掛人」や、「日本国民の責任を明確にする」といった目的があるようです。
つまり、大東亜戦争と、太平洋戦争では、歴史上同じ事象でも意味合い、目的が全く異なるものなのです。
こちらの動画がわかりやすいと思います。
この意味合いの違いが、靖国参拝が外交上の問題となっている大きな原因ではないかと思われます。
中曽根内閣の時から色々と問題視され、現内閣に至っては、ほとんど参拝していません。
今回参拝に来た議員は720人中50人程度と言われています。
この敗戦の日を侵略戦争の終戦として捉えるか、自衛戦争の敗戦(終戦)として捉えるべきかは政府が迷っていますが、
ひとつ言えることは、こうして参拝に行くことで、今まで知らなかったことが知ることが出来ました。
言い忘れましたが、私は今回、初めて靖国神社を参拝しました。
こんなにも深い意味があるなんて到底わかりませんでした。
この関連の本は何十冊も読んだので、詳しいつもりでしたが、実際には知らないことだらけでした。
「Seeing is Believing」なんてことわざがありますが、
まさに百聞は一見にしかず。だと思います。
今回、私は、あえて「敗戦の日」と呼ばせて頂きます。
終戦記念日と呼ぶ声が多いですが、日本が戦争に負けた日を記念日になんかしたくない。というのが根底にあります。
事実として、日本はABCD包囲網により追い詰められ(震災後のガソリン不足の極大な状態を想像してください。)
「ハル・ノート」
をつきつけられ、戦争に突入しました。
当時、国際法上合法であった領土を放棄しろ。
と言われれば、戦争か従属しかない状況です。その後、上記のスローガンのもと、戦争に突入し、結果負けた。
しかし、本当のスローガンは家族という最も近い人を守りたかった。
ということだと思います。
今の時代があるのは戦没者のおかげです。戦没者に敬意を持って参拝に行くことは日本人として当たり前のことだと思います。
それをおかしい、と言ってくること自体がおかしいことです。
相手の顔色をうかがって、参拝に行かない国会議員も同じです。
8月15日は、そんな日本が戦争に負けたことを認めた「敗戦の日」なのです。
この日は日本人にとって特別な日と考えています。
1945年の 正午、昭和天皇が「戦争終結の詔書」を読み上げる玉音放送により、ポツダム宣言受諾・連合国への降伏が日本国民に伝えられました。
これにより、日本の敗戦(終戦)の日 としています。
・玉音放送(ぎょくおんほうそう)とは??
→天皇の肉声(玉音)を放送することをいう。特に1945年(昭和20年)8月15日正午(日本標準時)に、社団法人日本放送協会(当時)にてラジオ放送された、昭和天皇による終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)の音読放送を指すことが多く、この放送は、大東亜戦争(太平洋戦争)における日本の降伏を国民(当時は「臣民」と呼んだ)に伝えるものであった。
この日は正午に黙祷を行っています。
本日は靖国神社や、日本武道館で開かれた政府主催の全国戦没者追悼式で黙祷を行いました。
とても多くの方々が参拝にいらしていました。
昇殿をし、参拝をすることもできます。
・二拝
・二拍手
・最後に一拝
が基本的な参拝の作法になります。
イベントも行われていました。
この炎天下の中、すごい人だかりでした。
神社の回りは、さまざまな思想がありました。
現政権のこと、過去の総理談話のこと、現在国会で通ろうとしている法案のこと、中国共産党のこと、教科書問題のこと。etc。
こうして見て回ってみると、日本て平和なようで、知らないうちに色々なことが起きているのだな。と実感しました。
靖国神社の戦争別合祀者数
・明治維新 ・・・7751人
・西南戦争 ・・・6971人
・日清戦争 ・・・13619人
・台湾征伐 ・・・1130人
・北清事変 ・・・1256人
・日露戦争 ・・・88429人
・第一次世界大戦・・・4850人
・済南事変 ・・・185人
・満州事変 ・・・17176人
・支那事変 ・・・191250人
・大東亜戦争 ・・・2133915人
計・・・・・・・・・2466532人
約250万人のうち、大多数が大東亜戦争時の死者です。
そもそも大東亜戦争って何??という疑問がありました。
太平洋戦争として習ったことでしたので。
では、そもそもなぜ、呼称が変わったのでしょう??
昭和16年12月10日、いわゆる真珠湾攻撃の2日後です。
「大東亜戦争」と呼称することが閣議決定されました。
これは、陸軍が提案したものです。
海軍は「太平洋戦争」と考案していました。
この二つの考案に非常に深い意味があり、
「大東亜戦争」は、当時の内閣情報局の発表によると
「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と呼称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして戦争地域を主として大東亜のみに限定する意味にあらず」
と発表されています。
大東亜新秩序とは、日本、中国、満州国の協力のもと、に建設される東アジアの国際秩序の理念を表し、当時のアジアは日本、中国、、を抜いてほとんどが植民地でしたので、欧米の人種差別意識に基づくアジア被植民地体制を打破し、人種、民族平等による新しいアジア国際の真秩序を目指すものを言う。
よって、自衛とアジアの解放という戦争目的を明確に示した呼称となります。
「太平洋戦争」は、海軍の発表によると、
今次の戦争は、主に対米戦争であり、主戦場たる太平洋で決定的に戦い全戦力を傾注しなければならない。
という戦争指導上の方針に基づく主張から出た呼称でした。
現在広く使われている「太平洋戦争」は、また違った意味だそうです。
そもそも海軍の主張ではないものだそうです。
敗戦後、日本を占領したGHQは、昭和20年12月15日「神道指令」を発し、その中で、大東亜戦争などの用語を「国家神道、軍国主義、過激なる国家主義」を連想させるとして使用停止を命令した。 とあります。
その時に特に、新しい呼称は用意していなかったといいます。
代わりに各新聞社が連合軍司令部提供の「太平洋戦争史」を連載させ、検閲によって大東亜戦争は全て太平洋戦争へ書き換えさせた。
この、太平洋戦争史では、日本の「侵略戦争」を遂行した「戦争仕掛人」や、「日本国民の責任を明確にする」といった目的があるようです。
つまり、大東亜戦争と、太平洋戦争では、歴史上同じ事象でも意味合い、目的が全く異なるものなのです。
こちらの動画がわかりやすいと思います。
この意味合いの違いが、靖国参拝が外交上の問題となっている大きな原因ではないかと思われます。
中曽根内閣の時から色々と問題視され、現内閣に至っては、ほとんど参拝していません。
今回参拝に来た議員は720人中50人程度と言われています。
この敗戦の日を侵略戦争の終戦として捉えるか、自衛戦争の敗戦(終戦)として捉えるべきかは政府が迷っていますが、
ひとつ言えることは、こうして参拝に行くことで、今まで知らなかったことが知ることが出来ました。
言い忘れましたが、私は今回、初めて靖国神社を参拝しました。
こんなにも深い意味があるなんて到底わかりませんでした。
この関連の本は何十冊も読んだので、詳しいつもりでしたが、実際には知らないことだらけでした。
「Seeing is Believing」なんてことわざがありますが、
まさに百聞は一見にしかず。だと思います。
今回、私は、あえて「敗戦の日」と呼ばせて頂きます。
終戦記念日と呼ぶ声が多いですが、日本が戦争に負けた日を記念日になんかしたくない。というのが根底にあります。
事実として、日本はABCD包囲網により追い詰められ(震災後のガソリン不足の極大な状態を想像してください。)
「ハル・ノート」
をつきつけられ、戦争に突入しました。
当時、国際法上合法であった領土を放棄しろ。
と言われれば、戦争か従属しかない状況です。その後、上記のスローガンのもと、戦争に突入し、結果負けた。
しかし、本当のスローガンは家族という最も近い人を守りたかった。
ということだと思います。
今の時代があるのは戦没者のおかげです。戦没者に敬意を持って参拝に行くことは日本人として当たり前のことだと思います。
それをおかしい、と言ってくること自体がおかしいことです。
相手の顔色をうかがって、参拝に行かない国会議員も同じです。
8月15日は、そんな日本が戦争に負けたことを認めた「敗戦の日」なのです。
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