私は、「生きる」ということと、「自分を大切にする」が、まったく結びつかなくて・・・と言うより、結びつかないものなのだと100%思っていました。
「楽しんで」
「もっと、気を楽に」
「自分を大切にしなきゃ」
という言葉をもらうたび、首を傾げるばかりでした。頭の中はクエスチョンマークばかりでした。
早い話が、「生きる」って、楽しむものじゃないでしょ?
と、ずっと思ってきたのです。
「生きる」とは、苦しい道を行くもの。苦悩や困難を克服して、より自分の質を高めていくこと。。
でも、これが一番近いかもしれません。
自分だけが楽しく過ごし、幸せでいようとは思わない。
(でも、一方で、死ぬほど渇望しているんですよ。自分が引き裂かれている状態?)
こう思うのは、私は「世の中には、又は身近には、沢山の苦しんでいる人がいる」という前提で、日常や社会、そして世界を見ていたのでしょう。
(実際、そう見てきた心当たりはあります。小学校低学年くらいに、決意にも近い思いで、そう胸の中でちゃんと言葉で残した思い出があります。)
そして、そういう人が沢山いるのに、自分だけ楽しんではいけない。その人達の痛みや苦しみを通り過ぎてしまうことなんて出来ない。そうした思いで、40代半ばまで生きてきました。
「世の中には、身近には、沢山の苦しんでいる人がいる」
でも、これは、私のことなんですよね。
私がそうだから、人々のその部分に反応したということです。私の中にそれがあるから、同じものに反応したとも言えます。そして、私は、私の手の届く人々の気持ちを満たそうと、上述した理由からも、ずっとそうしてきました。自分から進んで言いなりになることも多かったと思います。そして、喜ばれることもあったし、軽く扱われることもありました。
他者に自分を投影しているわけですから、他者を癒そうとして、幸せを感じて貰おうとして尽くします。他者に幸せを感じてもらって、自分も幸せになれるという構図も作っていました。見返りを求めることに近いのでしょうか・・これは、私があげるものを否定せず受け取って欲しいという、一種の恫喝です(苦笑)。私と同じ価値観でいて欲しいという。
その人が何を求めていて、何を思い、何を幸せを感じるかは、他者には分らないことです。分らない、は言い過ぎかもしれませんが、やはり断定などできません。又、近しい人と、遠い関係の人との違いはありません。皆、自分自身のフィルタを通してものを見て、信じて、創り上げた自分の世界の住人だからです。
自分と同じであって欲しいと、その人を呑みこもうとしたり、又は、暗に貸し借りを強要しているような、契約的とも言うのか・・・共依存的な関係が、リレイションシップ(人間関係、信頼の構築、愛し合うこと)なのだと、それが、私の物差しだったように思います。
私自身のことではありますが、かなり力ずく感で、何とかしようという思いがヒシヒトと感じます。
実際、そのための腕力はかなり強くなりました(笑いごとにしたくありませんが、(笑))。そして、お気づきかと思いますが、人は、やはり自分自身でいたいものです。同じものを求められて、「同じになって」ともたれかかられては、関係性は滞ります。それは、一つに、自分を変えられようとする恐怖や嫌悪感。一つは、その人(独自)の与えたいものを受け取ってもらえないとう失望感(大袈裟に表現すると、拒絶感)があると思います。
今日は、この「思い癖」をふと思い出したとき、「私は自分だけ幸せになろうなんて、心の底から思ってないよ」と言った私に、ただ、ぽろぽろと大粒の涙を流して話を聞いてくれた友人との、あの情景が甦りました。本当にありがとう。今思うのは、ベタですが、「自分だけ幸せになろうなんて思ってない」というのは、もう傷付きたくなかったから・・だったかもしれません。そうして遠ざけている方が、無意識下では、私は平安だったのでしょう。
今日も、最後まで読んで下さって本当にありがとうございました。
今日も、皆さんの全てが慈しまれる一日でありますように。