ユア・ハイハート、自らの神聖さと共に。

心や魂のこと。生きる勇気と希望。
世界はいつも儚く光に溢れてる。誰もが強くて優しい。No worries, 大丈夫。

あらためて、「変わる」ことについて。

2019-05-03 14:49:51 | 心理学
振り返れば、私は「変わる」についての解釈をじっくりとしたことがなかったかもしれません。
当ブログにも、似たようなことを繰り返し書いてきたにもかかわらずです。私は「前に進む」、ある一点へ「辿り着く」といった考えは常に持っていました。そのことと、今から書くことは、同じと言えば同じかもしれませんが、やはり決定的に違う点があります。

まず今までの考えからですが・・進み、辿り着く過程においては、様々な紆余曲折があって然るべきで、苦悩し、一つ一つ乗り越えていく。それが私という一人の人間の精神的成長を促すのだ。そういったピクチャーで私は生きてきました。
でも、実際は、頑固が好きなだけだったようです。何故なら、下記を見ると「変わる」ことを求めていないのが一目瞭然ではないですか!

・柔軟性がない。
・試行錯誤をしない。
・生産性、効率、より大きく貢献できる可能性を考えていない。
・ただ、障害(岩のイメージ)に向かい、力任せに打ち砕いて進んできただけ。
・基本的に「私は正しい」と思っている。

特に、最後の「私は正しい」・・自分が変わるという意識にフォーカスしなかったのは、この部分が非常に大きい気がします。これが決定的な違いなのだと思います。自分にこだわり過ぎていたのです。
 
 今、私は、変わるということの認識を違う角度から見つつあります。
単に、言語化する際の単語の違いだけかもしれませんが・・とりあえず、続けます。

今思うのは、「自在に」「毎秒」変わるこそが、「変わる」ことでないかということです。
それは、こだわらない、決めつけない、頑なにならない、ことかもしれません。
自在性や想像力が少なく、我が強い場合の「変わる」は、窮屈で不便でキツイと思えます。もっと言うなら、自分に対して迷惑とも思います。
(なかなか愚かしい・・でも、自分のことなので裁いても仕方ない!!)。

そして、自分の「我」に関して。
何に対して「満足」「快適」と思うか。「幸せ」「安心」と思うか。「楽しい」と思うか。。
これら気持ちは、何らかの状況や環境、関係性に対して生成されます。そういった対するもの(状況、環境、関係性)がなければ、発生し得えるものではないのです。

私自身が、どんなに精神的に成長したと思ったとして、それで自分の望みが叶うかと言うと、すべては相手(対象が)あってのこと。
例えば、個人の幸せしか要らない!!と無人島に渡ったとしても、恐らく、自然との関係性なくして幸せとは感じられないでしょう。
太陽が照らなけれ・・時化ばかりでは・・食べ物が獲れなければ・・私なら、決して幸せとは感じられない。

そのためにも、対するものとの健全で幸福なブリッジ(橋)が架けられるように注※自分が得たいものが得られるように・・も含みます)、
まず、自分で自分を満たし、自分が責任を取れる範囲のことを坦々と行っていくことが大切だと思います。
そうすることで、心の中に芯が育ち、安心感も大きくなり、外部からの影響(相手の感情や態度など)を受けにくくなります。
「・・そこまではケアできないわよ」と相手が思ってしまうようなことを、他者に求めてします人も多いです。
気付いていない場合が殆どかもしれません。私自身もそういうところは絶対にあるので、ますます自分自身との対話を図っていきたいです。

 それには、起こることを恐れないこと。
私も起こることを恐れ、起こったことに喧嘩を売り、起こったことから自分を護るという、何と不効率なことをしてたのか(本来の目的に労力使ってない!)驚くばかりですが、実際のところは、起きることを眺め、経験していくだけで良いのだと思います。

私達は、何者でもないし、何者にもなれないし、何者になる必要もない。その一方で、もう、すでに何者かです。今がどういう状態でも、自分の我(が)を認め、許して、自分自身に統合するよう努めましょう。そこは、努力という言葉を使った方がいいかもしれません。
私たちは常に、無かつ最善の存在ですが、その実感のためには「努力」という言葉の意味する作業を続ける必要があるのだと思います。喩えるなら鎧を脱いでいく作業ですので、恐怖を感じることもあるでしょう。でも、その一つ一つの経験のために、命を宿しているとも言えます。

そして、自分が無であり最善であることを思い出す過程で感じることや、経験すること・・それも私たちが変化と呼んでいるものだと思います。
時に難しいときはあります。でも私は、何を感じようが、何を経験しようが、本来は私達の核を脅かすものでは決してない!と、そう思っています。No worries! 大丈夫!!。


注※自分が得たいもの・・それは本当に得たいものかと見直すことはとても大切です。
望んでないのに、今までの思考のパターンで「そう」思っていることもあります。
それとは別に、自分が得たいものを得る(オーダーを出す)行為は、現実世界に生きている以上、していかなきゃいけない行為とも思ってます。
現実的に生み出せるものがないと、他者に奉仕できないですから。

長くなりました。申し訳ありません。


今日も最後まで読んで下さってありがとうございました。

今日も皆さまの素晴らしい一日でありますように。


自分を愛すること。

2017-10-29 16:52:53 | 心理学
 最近、まとまった文章を書くことから離れていていました。疲れていたのは確かですが、やはり、書くことはすごくエネルギーが要るんですね。だからこそ、私にとっては、書くことが色々な解放をもたらしてくれます。しかし、それでも尚、何か抵抗を感じてます。単に今までの思考の癖ですね。相手にする必要はないかなと思ってます(笑)

 10月初旬から絶賛デトックス中(?)で、昨夜もお腹を壊しました。私としてはとても珍しい。今週末は、また台風が北上しています。様々なことが巻き上げられ、洗われて、沈んでいたものが浮き上がるのかもしれません。もちろん物理的には 、どこにも大きな被害が出ないことを願っています。無事通り過ぎますように。。

 今、私は「自分の感情を恐れない」ということに向き合っています。感情とプラス「想念」でしょうか。蓄積され、パターン化された想念エネルギ-の発火に常に怯えている私がいると思ったからです。大体は、文字通り「怯え」・・傷付けられる、怒られる、イヤな思いをさせてしまう・・といった種類の想念が私を取り巻いていて、それがデフォルトとなり、実際にそういう状況(そういう気持ちになってしまう状況)を生んでしまっているのではないかと考えます。それが正しいかどうか自信はありませんが。。

 先日は、それがもう滅茶苦茶にイヤだ!もう本当にイヤだ!!と思ったんですね。ただ悲しいことに(苦笑)、今までのパターンとして、まずは、相手を憎み、近寄りたくない、忘れ去りたいとする自分がいまして。。でも、その相手の言動には、私が憎み、忘れ去りたい「私自身の何か(一部と呼んでもいい)」が投影されています。それを思い至ったとき、私の中にそれがグサリと刺さりました。あーそうなのかと。

 相手の言動に対して、私の中で生まれた情動。それに対して、私がどう感じたか。
 その相手の気持ちを察したときに、私がどう思ったのか。
 ・・・それは私の中にしまい込んで、思い出さなくなった何か。
 もう少し平たく言うと、私に何かを教えてくれているのだなと。
 
 忘れないで。憎まないで。思い出して。これも、それも貴女なんだよ」と。。

 さて、近寄りたくない、忘れ去りたいくらいですから、センシティブで、今あるバランスを失いかねない古く押し込めた想いなんだろうと思います。今とりあえず一応の答えを持てましたが、近寄りたくない、忘れ去りたいと、意思の力でそうすることが解決でないのだと認識できたので、ひとまず、よかったなという気持ちです。

 今は、自分で自分を護れるし、気持ちも客観視できます。
それは、特別にそういう技術を持ってるとかでなく、単に大人だから。

 外に求めなくても(求めてもいいのだけど)、自分で自分を見つめることができるし、労わることができます。外に求めてもいいのだけど、その場合、自分の都合の良い(自分が求めるそのままを)相手に求めてしまい、空回りすることが多いのではないでしょうか。結果、こちらも相手に強制的になったり、攻撃的になったり、望むものを得るために自分を意味なく卑下したりと、表現が歪んでいくような気がします。結果、相手にも伝わって欲しいことが伝わらない。その辺りは痛い思いをたくさんしているので、いつか活かしたいです(^^;)。

 自分を愛すること・・
私も未だ良く分かっていませんが、じっくり向き合いたいです。愛せるようになりたいから。。
 
また私が大好きな歌にも、こんな歌詞があります。
Leaning to love yourself, it is the greatest love all of.
自分自身を愛すること。それが何より大切な愛だから
(ホイットニー・ヒューストン『Greatest love of all』)

Love will be the gift you give yourself.
自分自身に与える贈り物。それこそが愛。
(セリーヌ・ディオン&バーブラ・ストライサンド『Tell him』)

今日も最後までお読み下さり、ありがとうございました。
今日も、皆さんの心休まる、良き一日でありますように。
 

変わる。

2017-05-04 00:08:23 | 心理学
心理に関係する問題があり、それが、短期で、且つ根本的に問題が解決できたらいいでしょうね。
ただそれが、どのくらの時間で、どのくらいの内容まで解決できるのか。
そこはコントロールできない部分だと私は思いますし、そこに執着しない方がいいと思います。

でもやはり、短期で、根本的解決を享受できれば、すごくいいと思います。
人生は短いです。
一方で、何も解決できないまま一生が終わる、過去のカルマを贖罪するという一生を、現世で生きている場合もあるでしょう。

もし仮に、今世を「贖罪の一生」としてを選び、生まれ、今に至るとして、
それを受け入れることで、一筋の恩寵は必ず見えてくるものだと思います。
生まれてきた意味、生きてきた意味、または、何の抵抗も働かない、根底から自己を容認できるようなもの。すべての嫌悪感が消えるような。

ただ「受け入れる」とは、多くの場合、本当に簡単なことではなくて、
「それを受け入れるしか生きる道が残ってない」という状況になって、初めて向き合う覚悟ができることかもしれないです。


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脱線しましたが、解決とは、一つに状況が変わることを指します。
それは、私たちの感じ方、ものの見方が変わるということなのですが、いずれにせよ、変わることですね。

「変わる」。
それを心から願い、その摂理を信じ、受け入れられるかが、「短期」且つ「根本的」な解決に近づけるキーです。


決して望んでいない状況でも、それがConfort zoneとなっていて(慣れ親しんでしまい)、現状維持に固執するパターンがあります。変わるとは、そのコンフォートゾーンを壊すことでもあるので、避けてしまったり、尻込みしたり、受け入れられない場合も多いです。でも、エイヤ!!っと壊して、その外に出る日は絶対に来ますよ。

暦は一日一日と数が増えていく。毎日、太陽が東から昇ることは変わらなくても、咲いた花は必ず散っていく。明日という日がどんな一日になるか、本当のところは分からない。良いことは良いままで残したくとも、それを握りしめず、変わるという摂理に沿ってみる。。
そういう一種の覚悟と、今までの自分の否定(コンフォートゾーンの破壊)に向き合えたとき、変化は加速し、根本原因まで掘り起こされる確率は高いと思われます。(多くの場合、繰り返しの作業になると思います)

また、「この部分はそのままがいい、この部分だけこうなって欲しい」という前提は、それを理性的に認識していれば大丈夫ですが、抑え込んできた感情に支配された結果であることも多く、ゴツゴツ障害物にぶつかりながらの長い旅になるときもあるかもしれません。でもそれも、その人の必然=道です。私見ですが、戦って、相手を打ち負かしたい気質の人は、そういう状況を創り出しやすいかもしれないですね。(例:打ち負かせたいから、敵を創り出す=幻想する)

もう一つのキーは、「いろんな選択肢があるよ」「いろんな方法があるよ」と、トライ・アンド・エラーを繰り返すこと。
心が疲れ切っているときは、なかなか視野を広く見れません。気分転換もしたくない、その術さえ忘れてしまった。。というときも、自分が今まで信じてきた方法以外にも答えは見つかるのだと信じて、出来る範囲で好きなことをする等、少し、心の力を抜くことをされるといいと思います。
(私もこれが全くできない人だったので、難しいのは、とても分かります。)

「変わる」は、問題解決であり、進化であり、成長であり、クリエイティブな変遷です。

私たちは、問題を目の前に置くことで、その過程を一つ一つ経験しているのかもしれないですね。人間の感情からは、そう思いにくいことも多いですが、魂のある部分では面白がっているのかもしれません。何が起こっていこうとも、信頼したいですね。


今日も最後まで読んで下さってありがとうございます。

今日も皆さん一人ひとりの、健やかで愉しい一日でありますように。



傾聴3 水面の月

2012-01-18 02:18:28 | 心理学
傾聴

お相手の気持ちに寄り添う。
聴き手自ら心を開いて、お相手の心の襞(ひだ)に沁み込んでいた思いを優しく浮かび上がらせる。

「傾聴」について、以前も2つ書かせて頂きました。
よろしければ下記2つもお読み頂ければ幸いです^^

傾聴1
傾聴2 オープン・ハート 許しと裁き



ただ、傾聴は「聴く」テクニックや心の在り方であることは確かだと思いますが、お相手の気持ちを「分かろう」とすることとは一線を画すものではないかと思うようになりました。勿論、「分かろう」「分かりたい」という聴き手の真摯な思いがなければ、傾聴によるお相手の心の解放、癒しは成り立たないのも又真実と思います。

しかし、その方(お相手、話し手)が持たれている、持ち続けてこられた思いというものは本当に様々で、傾聴をはじめとする心理療法など何一つ助けにならないのではないか・・・と、聴き手側が打ちのめされてしまうときがあるのも事実です。そのような時に(これは多分に私の個人的解釈ですが)、気持ちを「分かろう」「分かりたい」というのは逆効果の場合が多いのではないかと思うようになりました。

「この気持ちは、誰にも分からないよ」
「あなたに、何が分かるっていうの?」

こういう気持ちのときって、こういう思いを持ち続けるときって、あると思うんです。
そして、それは、とてつもない深い悲しみだったり、長い苦難の果ての(又は現在進行形の)気持ちであるが故に、一つの完成された宝石、芸術品ではなかろうかと私は思いました。しかしながら、その方にとっては、それがどんなに美しく崇高なものであっても、好きで持ち続けたものでなかったものでしょう。結果的に(今、現在分かり得る「結果的」でなくとも)それは、持ち続ける意味が確実にあったとしても・・・。

このように「他の誰が分かるっていうの?」という気持ちは姿を変えて、一つの完全な芸術品として、その方の心にシン・・・と静かに存在しているのだ、と感じてしまうときがあります。

それはまるで、月の輪郭を寸分ぶれずに映し出した静寂の水面のようです。
その方が、努力して努力して、そのような完全な芸術にされたのです。そのような場所に、聴き手が入り込むものではないと思いました。

水面に映った月を揺らすのは、その芸術を創り上げられたその方、唯お一人だけです。


お相手の話を聴こうと、お気持ちを分かろうする気持ちは十分なのに、何故か双方の空気が溶け合わず、聴き手だけが前のめりになってしまっているように感じたときは、お相手の領域に「入りすぎている」からかもしれません。その時は、この「水面の月」が聴き手の介入によって揺れてしまってないか、月の輪郭を崩してしまっていないか・・・鏡のような静寂の水面、そしてそこに映った月。そのイメージで一度試してみて頂ければと思います。

月が揺れているイメージが出てきたのなら、お相手の領域に踏み込み過ぎか、ご質問など、介入する際のお断りを忘れていたのかもしれません。そのように、その方が尋常でない思いと月日で創り上げられた芸術にただ敬意を持つ気持ちが、話し手、聴き手ともに良い時間を共有する一つの重要なエッセンスではないかと思いました。



今日も最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました。

今日も皆さん一人ひとりの全てが輝き、慈しまれる一日でありますように。


傾聴2 オープン・ハート 許しと裁き

2011-06-08 09:19:22 | 心理学
心を開く。

ハートを開く。

これらは、傾聴することによって得られる著しく大きな恩寵です。
私個人的には、これは「効果」や「結果」という言葉では表せないくらい大きな大きなものです。

心を開く。自分を曝け出す。
自分では思いっきりオープンなつもりでも、実は頑なに閉じていたりバリアを作っていたりすることがあります。一例として、自分ではとても社交的だと思っていても、どうも人付き合いで問題が起きてしまう。開いているつもりでも、心の扉をパタンと締め切っている場合、このような現実が起きる場合があるかもしれません。顕在意識上と無意識上との認識の違いですね。

又、難しいと私自身も思う一つとして、
上述と矛盾しますが、実は、心は割りと簡単に開いたりします。ただし、開き続けることは難しい。
そして、開き続ければいいというものでもない。場合によっては、ガードするために閉じることも大切です。

これを意識的にコントロールするのは・・・是非、目指したいものですが、私などが言うまでもなくとても難関です。
コントロールするからには、自分がどのような自分でいなければならないか。そこが焦点になってくるからです。


さて、この「心を開く」。

「心を開く」とは、自分を許すことではないかと思いました。
自分を許し、自分への裁きを終えることです。そして、自分を許せるとは「恩寵」の何物でもないと私は思います。


そして、どのようなときに心は開いていくでしょう。

自分の感情に共感してもらったとき。又、同じことかもしれませんが、自分の感情が排除されなかったとき。

言葉だけでなく、その後ろに控えている気持ちまで触れ合えたとき、孤独が拭い去られ、閉じていた心の扉が開いていくのだと思います。そしてそれは、耳を傾けてもらった片側だけの心が開いただけではありません。耳を傾けた聴き手の心も開いたからこそ生まれた温かさです。

また、心理的な変化というのは、自分以外の何か、自分が持っていない何か=外部を受け入れたときに起きるものだと思います。
聴き手が心を開いて、話し手の感情を受け止めた。
話し手の心に救いが生まれ、回復の灯りが灯り始める。そして自分以外の何か・・・今、自分が知り得ている以外の何かを受け入れようとする力が生まれ、その受け入れスペースのために心が開く。

これは、その人の今まで心を閉じさせていた理由まで触れ、溶かすことが出来たということと言えないでしょうか。


恐らくその理由とは、過去の出来事、振り返りたくない闇の部分、思い出したくない気持ち。
自分の意図だけでは主体的に近づこうとしない、もしかしたら気付くことさえも難しい場所。

そんな場所に他者(聴き手)が傾聴という行為を媒体として介在することで、話し手が自ら近付こうとする。触れようとする。手触りさえ感じようとする。これは「恩寵」としか思えない変化だと、私はやはり思います。

そして自ら触れていこうとすることは、そのまま自らへの許しなのだと思いました。
他者や境遇、環境からもたらされた傷よりも、私たちは、それをきっかけに自分で自分を裁き、更に傷付けている場合が意外と多いのではないかと思うときがあります。

「裁き」「許し」は、どちらかと言うとキリスト教の世界であり、ましてや宗教や哲学がさほど社会に根付いていない昨今の日本では、馴染みが少ない言葉かもしれません。しかし自らを裁いているかもしれない、そして自らを許していないのかもしれない。そのような別視点を持つことで、何らかのヒントになる場合もあるのでは・・・と思い、この記事を書いてみました。



今日も最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました☆

今日も皆さんの全てが輝く一日でありますように。