ユア・ハイハート、自らの神聖さと共に。

心や魂のこと。生きる勇気と希望。
世界はいつも儚く光に溢れてる。誰もが強くて優しい。No worries, 大丈夫。

自分とは。

2020-01-11 01:41:00 | 癒し
自分とは、
「自らが分かっている(認識している)」存在のことかと思います。
自分とは、要は「他者」とも言えます。

私が創り上げた私の残像…と言うか。私に一番近い他者…と言うか。

その自分に、あれやこれや、価値や意味をラベリングして(してるのは私で)、
そして、自分という存在が息をし始める。
それが「私」だと信じてしまう。

解釈の仕方を変えただけなのに、
さっきより、目の前の景色が目に鮮やかに映ったり。
気持ちが楽になったりしますよね。

私たちは、そのことを許していると思うし、そのことを求めているとも思います。
気持ちが明るく、楽になることって大切ですから。

そして、例えば上記ののように知覚が変化したならば、
違う「自分」になった、と言えるのではないだろうか?と思います。

私がどんなシナリオを、この肉体を使って演じるか。
そして、そのドラマ(喜怒哀楽)を感じたい、経験したい。
悲しみも、憎しみも。
喜びも安寧も。
後悔も、深い感謝も。

それにより、今までのこと…

しがみついてきたこと。
許せなかったこと。
恐れてきたこと等。

受け入れられず、避け続けて、自分から離れた状態に置いているもの。
そして、それら自体も生命力を持って、場合によっては自分に敵対してくる。

そこに心を開いて一つになるとき、
そのシナリオとその自分は、
幕が降りるんじゃないかと思います。

「私」は、演じさせる側ですね。
「私」は、無意識領域に半分以上ある状態だから、
どんなシナリオなのか、顕在意識下の「私」も、それは完全には分かりません。


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このように、一見演じたくない、台本さえ読みたくないくらいの舞台でも、
人生に於いては度々選ぶのですね。

選んだつもりなんてなく、送り込まれた感しかなくても。
実際、そういう働きが動くこともあるかもしれません。

そうやって、実際に舞台に立ち、立ってみなければ分からなかったことに向き合う、取り組む…
それが生きることかもしれないと、2020年の始まりに考えました。

生きる意味や価値は、今の自分では知り得なくても最初から確実にあるので、
それを希求して彷徨うより、
問題であり、喜びなりに向かい合い、取り組み、受け取ることを続けることで、
自然に理解していくのではないでしょうか。

勿論、苦しく長い道のりのときもあるでしょう。それが多い場合もあるでしょう。

また、「自分」を「他者」と捉える「私」なら、
喜怒哀楽をドラマティックに、深く、濃く感じても、
依存したり、そこから習慣を作らないんだと思います。

私もこの感覚、実際にはまだ良く理解していないので、こんな曖昧な書き方ですが。。
多分、その場で完結するのでしょう。そして、毎回新たに知覚し、体験していく感覚でしょうか。
子供のような感覚かもしれません。

より純度の高い子供性を活かすには、
より成熟した個でなければコントロールできないし、その子供性を遊ばせられないでしょうから。

人生は、未知を既知にするための道程で、
現在の解釈では否定したい(ネガティブな)要素が介入することは基本的に必至です。
内容は人それぞれ。その方のカルマにもよります。
それも込みで、次の幕へと続いて行くのだと思います。

それは「自分」になってみないと出会えない宝物との出会いのために。
何より「自分」が、その時、その時の「自分」が、どんな自分も宝物そのものだと知るために。

宝物・・それは、制限を課せられている「自分」でないと見つけられないのです。

Life goes on to discover a lot of treasures within you and find yourself treasure itself.


もう10日も経ちましたが、2020年も、どうぞ宜しくお願いします。
今日も皆さまの健やかで愉しい一日でありますように。



高次の意図。

2019-05-05 17:56:50 | 癒し
ついに、ついに、というか・・先日、体調なんとかしないと、もうダメだ!!となりまして。
ゴールデンウィークの頃は、冬の疲れが出るのか(寒いの苦手)例年体調が良くないのですが、今年はもう一段階追い詰められた感覚になりました。そして対策としては、身体そのものより、心へのアプローチだと直感で思いました。
今日は、そこからの心の経過をシェアさせて頂ければと思います。

まず心に浮かんだのが、「敗北感」。なりたい自分になれなかった、という気持ちです。「敗けた・・」という気持ちが、煙と煤(すす)の感触さえも一緒に身体の中いっぱいに広がりました。その他として、

「長い時間を無駄にしてきた」「なんでもっと早くに振り返れなかったのか」という後悔の念。
「今からではもう遅い」という強迫観念と情けなさ、やはり後悔の念。自分への制裁の念。

今までもたくさんセルフケア(セラピー)してましたが、今回は抜け出せないかも・・と思うくらい、暗ーい気持ちになってしまったのです。

でも、この30年を振り返ってみたとき、「今が10年前だったら問題なかったんだけど」と。要は、この10年がモタモタしていたということです。でも更に振り返ってみると、問題は、この「5年間」が思ったように動けなかったんだという結論になりました。ここからが可笑しいのですが、「5年か、それなら全然取り返せるじゃん」と、一挙にとらえ方が変わったんですね。私の基準では、10年だと絶望的だけど、5年ならOK。ほぉーー。

次に、この「取り返す」という言葉に引っかかったので(その5年間を受容できていない、その5年間を悪と思っている)、シンプルに「何でだろう」と考えてみたところ、この5年間どころか、自分のほぼ全容を受容できていないことに気付いたのです。浮かんだのは「自分を許してない」という言葉でした。私が今後何ができたとしても、どういう自分になれたとしても、自分を許す(認めるかな?)ことはできないと思いました。
それは、ほぼ確信でした。

私は20歳代前半くらいのときに、理想の自分像として、本当に馬鹿馬鹿しい内容を設定し、強く自分にインストールしたのを覚えています。世界一お金持ちの家に生まれて、世界一の美女で、ハーバードかケンブリッジ大学卒業で・・って、これは本当です。何故、馬鹿馬鹿しいのか。それはお察しの通り、自分の事実とは違うからです。そして、例えそれが私の本当の出自で、その背景を持って、世界に誇る何か大きなことを成し遂げたとしても、それでも尚、決して自分を認めることも、許すこともしないだろうなぁ、という感想に至りました。

私の現在の価値観の範疇で、最高のスペックを持ち、考えられる最高のことをしたと仮定しても、自分を認めない、許さない・・

それなのに、「なりたい自分になれなかった」って何!?
「これが出来できない、あれば出来ないから私はダメ」って何!?
だって、それが出来たとしても、自分のこと認めないんでしょ?許さないんでしょ?
それなら、私が目指したいのは「そこ」じゃないよね? 
そこにたどり着けなかったからと言って、自分を責める必要はこれっぽちもないよね? 
そこにもう囚われなくていいんだ。負い目を持たなくていい。嬉しい(安心感)。

・・以上のように、思考が変遷したのですが、そうなると答えは一つでしかなく、「自分を認めたくない」「自分を許したくない」。私には、それがしたかったとしか考えられません。「何でだろう」という問いの答えはどこまでもシンプルでした。
自分を認められない、あるがままを許せない、それがゆえに苦しいのですが、あくまで私の場合、「苦しみたかったから」以外に私が納得する答えはありません。苦しいからこそ探求してきたのだと思います・・心理や魂、叡智について。少なくとも何年間かは、精神的な部分に重きを置いた年月を過ごしたかったのだと思います。そして、それを意識的に始めたのは、約10年前のことでした。

このように、私達は「高次の意図」を抱擁しています。
そして、それが結構、おかしいです。「あれ?」って。「うっそー!?」って。

自信や考え方って、根拠なく明るくなるし、根拠なく崩れてしまうものです。割とあっけなくて、でも、それがいいのだと私は思います。
自分自身や、今までの出来事に敵対するのは苦しいですよね。でも、多くの場合は誤解で、いったん誤解してしまえば、それが真実と信じ続けさせられてしまう。脳は省エネが好きだし、日本人は、どちらかといえば現状維持が好きな民族です。しかし、危険を察知する機能は現状維持優位性から起動しますから、バランスの問題と思います。でも、少しだけでもワイドレンジを追加すると、現状のとらえ方はあっけないほど変化します。今をもっと面白がれたらいいですね。私もそうしたいです!!



今日も読んで下さりありがとうございました。

今日も皆さま一人ひとりの良き一日でありますように。




喜びと豊かさ。

2017-12-02 14:48:41 | 癒し
 生きる喜びと豊かさ。

 私は、それをずっと求め続けて、考え続けて、それは何なのか、それはどういうことなのかを
ずっと知りたいと思っていました。それを経験したかったし、理解をしたかったのです。
今、それについて、私なりの言葉で表しておきたいと思います。
ただそれも、私という一個人の解釈に過ぎず、これから発展、拡大、もしかしたら逆行さえするかもしれませんが、
やはり年の瀬には、こういうことを整理しておきたいのかもしれません。

まず、それは「創造性と独創性の完全な開花と受容」と「自分の自由意志の支配」ではないかと思います。
でもそれは、到達点ではなく、あくまでスタート地点なのだと思います。 

生きる喜びと豊かさとは、
今、自分が座する肉体と共に、己の存在をこの世に押し出すこと。

「私、ここにいます」「これがしたいです」「「これをします」「このように考えています」など・・
何らかの形で・・
それが目に見える形でも、見えない形でも、
心の部分でも、物質、実生活、貨幣や経済の部分でも・・自分の扉を開くことではないかと思いました。

(肉体を持って生きている以上、「手に入れる」という表現に見れるような成功も勿論素晴らしいこと。
反対に、マインド上、そこの比重が著しく少ない人は、それが少ないが故に苦しさを生んでいるかもしれません。)

 それは、夢を抱くことであり、ゴールを決める(選定する)ことでもあります。
ゴールのない夢は、達成できない夢のままで終わり、
ゴールを決めるとは、それに対する自分自身への宣誓・・自己信頼を育てます。

どんな夢、どんなゴールという、内容は何でもいいのです。
ただ、その実現と、道のりに出会う様々な経験との共生・・それも、生きる喜びと豊かさかと思います。

一言で言うなれば、「葛藤がない」ことかもしれません。
また・・愛せる誰かが・・それは自分自身も含めて、愛している人々、愛せる何かがあるなら、
勿論、それも、喜びと豊かさに違いありません。

 出会う人々、具現されるもの、経験していくことを「師」として受け取りながら、
出来るなら、古きを終えること、新しい光へ向かうことに逆らわず、
自分自身のその時々の感情や思考を、ある意味、愉しみながら(裁かずに)今この時を過ごしていけるならば、
もう十分過ぎることだと感じます。
何故なら、それは、ある程度の平安が少なくともあって、初めて出来ることだと思うからです。

整理・・と言いながら、とりとめのない内容になってしまいました。。


今日も最後まで読んで下さってありがとうございます。

今日も皆さん一人ひとりの愉しく、健やかな一日でありますように。

乙姫プロジェクト in 徳之島【2】~身体は宇宙、海は無意識~

2017-11-10 13:53:26 | 癒し

太陽の光と海。私が大好きな光景。。

この記事から続きます。
『乙姫プロジェクトin徳之島【1】』
今日は、3泊4日の後半部分から、色々思ったことなどを。。

 徳之島での3日目は、追い込み漁を体験しました!!
てっきり、波打ち際か浅瀬で網を張り、魚を追い込んでいく漁、多少濡れるくらいかな?・・というイメージでしたが、当日は、沖まで泳ぎ(フィンやシュノーケルもつけて)、海中の岩場に網を張り、泳ぎながら魚を網まで追い込み、逃げようと沈んでいく魚も、潜水して更に追い込むという、かなりエキサイティングなアクティビティでした。(網は、泊まったホテルの支配人様が張って下さいました!)

 私は小中校、6年くらい水泳をしていたので、張り切って「潜水チーム」に名乗りをあげたものの、うーん。。結局、アタフタと何も出来ずに終わってしまいました。「さぁ!追い込んで!!」「さぁ!潜って!!」・・・私は、バタバタ、アタフタで、何から何まで皆さんにお任せ状態でしたが、素直に、メチャクチャ楽しかったです。

その結果が、ドーン!!!

大漁でした!!


網から外しています。青いパーカーが私です。私は結局、ひとつも網から外せず(汗)


獲った魚をお刺身にして頂きました。

 泳いでいた魚を獲って、生きていたその姿を見ていて、その魚を食する。そのときに感じた、圧倒的な「命」の押し寄せが、今もくっきり記憶に残っています。命を頂いているんだ。そうやって私は、日々生かしてもらってるのだと。。
とにかく「圧倒的に押し寄せてきた」としか言えないくらい、命の営み、内包されている何か、を感ぜずにはおれませんでした。

 しかし、もう一か月以上も前のことなのに、こうやって文章に起こしていくとすごく幸せな気持ちが蘇ってくるんですね。乙姫メンバーとの出会い、皆さんとの優しい気持ちの交流、無心で遊んだこと、たくさん笑えたこと、海と芝生、満月と風。。とてもとても幸せでした。そして、たくさんの方の助けがなければ、この3泊4日はあり得なかったことも、今も身に沁みて思います。

命を頂くという壮大な気持ちの体感と共に、皆さんへの感謝、海や太陽、自然への感謝、自分の弱さ、傲慢さ、でも純粋な部分・・・にもたくさん気付きました。また、自然は厳しさも当然ありますよね。私は、追い込み漁のとき、フィン(足ひれ)が網に引っ掛かり海中でもがいたり、シュノーケルを付けるのが初めてだったので、口と鼻呼吸がごっちゃになってパニック!!になったりしました。人間が生態系カーストの一番上にいる・・そうではないと頭では分かっているつもりでも、そういう前提で生活していた自分が少し崩れたようにも思います。


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 私は「停滞」を苦痛に感じる性質と思ってましたが、実は、変化をとても怖れていたのかもしれません。想定内の変化を追い求めて、想定外の変化は受け入れたくなかったのだと思います。今回、この乙姫プロジェクトに参加して、「自然」な私に近いているような変化がありました。想定外のことばかりです(笑)全部ではないですが、少し告白すると。。

1.「少年らしさ」が出てきた。
私のここ数年のテーマ「フェミニティ」「女性らしさ」があり、そればかり追いかけてきたのですが、表現したかったのは、実は「少年らしさ」でした。女性とは~~という縛りをかなり自分に課していたみたいです。そして、その対極にある(だろう)少年らしさを抑圧してたのかも。でも「泳ぐ」「海」という子供時代の楽しみを復刻できたからか、少年らしさも個性の一つ!と、何の抵抗もなく(これ不思議)受け入れられました。

2.お魚が大好きになった。
どちらかと言うとお肉が好きでしたが、今、あまり食べていません。反対にお魚を多く頂いています。内臓がよく動くようになりました。

3.一体感、調和の体感。
記事のサブタイトル「身体は宇宙、海は無意識」に関連するのですが、夜の浜辺の瞑想や、早朝の呼吸法や柔軟体操は、海で遊ぶこと以上に、素敵で重大な!!経験となりました。身体の中をいき渡る呼吸、それに伴い反応する身体の部分部分を感じたとき、身体は、なんて精妙な調和のもとに動いているんだろう、動かしてもらっているんだろう。。と感じた一瞬がありました。
私などは、まだまだ身体も固く、深い呼吸もできないですが、以来、身体がポカっと空洞になって、宇宙空間と一体になったイメージがあります。大地と海と、風や匂い、太陽や月、星、もちろん人と人、動物、魚、すべて繋がって、私が存在しているのかな・・と。

身体の重要性については、このプロジェクトを計画・主催して下さったキョーコさんのこの記事が、本当にためになります。
『身体とミッションと開運の関係』

また、今回初めてシュノーケルを付けて海の中を眺めました。普段見る海・・綺麗な水の色や、太陽や月の光を映し出す水面とは違う世界がありました。写真などから海の中のことは知っていても、実際に体験すると、感動の密度や驚き具合が全然違うのですね。色も大きさもとりどりな珊瑚、命のやり取りをしながら、でも自由に泳ぐ大きな魚、小さな魚。でも海の中は、それで一つの調和美の世界でした。これは、そのまま人間の無意識だと思いました。見えないし、分からない(意識できない)。一見(健在意識上の考えでは)厳しく怖ろしくとも、最善で調和美の世界。そこには、宝物が見つけれられるのを待っています。

最後に、初日10月6日、満月の写真です。


最後に、キョーコさん、スタッフの充代さん、乙姫の皆さん、本当にありがとうございました!!
またお会いできることを楽しみにしています。



今日も最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました。

今日も皆さんのすべてが輝く一日でありますように。

乙姫プロジェクト in 徳之島【1】~身体は宇宙、海は無意識~

2017-10-29 21:23:41 | 癒し
 10月6日~9日の3泊4日で徳之島へ行ってきました。
敬愛するキョーコさん(白鳥澄江さん)が企画・主催された 南の島で開運力をGetする!乙姫プロジェクト in 徳之島 に参加してきたのです!!帰ってきてから、デトックスなのか、体調の浮き沈みもありましたが、2017年最後の2か月に向けてReady GO!に整いつつあります。それでは、約1か月程経ってしまいましたが、3泊4日の様子と、感じたことなどをレポートしますね。



とびきりのサンセットが出迎えてくれました。

 私は、最初はキョーコさんがお書きになるブログの自称・熱狂的ファンで、どうしてもキョーコさんに教えを乞いたく、『人間力養成講座』『CEL講座』を受講しました。今回の参加も、最初はとても迷ったのですが、思いのほか休暇もスムーズに取れ、ドキドキしながら徳之島に到着したのでした。徳之島は今回が初めてです。沖縄は何度も訪れているのですが、奄美諸島は初めて。徳之島は、南の島なのに、北海道っぽさがあって(自分で書いていても??笑)、それは、自然が素朴で、野生も残っいるのだけど、優しく受け入れてくれるような感じを受けたからだと思います。沖縄だと、アンドロメダ銀河から天の川銀河に来たような異次元感があって、またそれが好きなんですけれど(余談です)。

この『乙姫プロジェクト』は、海合宿型のリトリート(ちょっと解釈は間違っているかもしれません)で、サイコシンセシス心理学(心・魂)、フェルデンクライス(身体)に精通し、アウトドアのご経験も豊富で、シャーマンでもあるキョーコさんだからこそ、作り得たプロジェクトです。そのキョーコさんのガイドによって、今回出会えた乙姫メンバーと一緒に、未知を楽しみ、遊び倒した3泊4日は、本当にかけがえのない思い出になりました。

 私は鹿児島空港で待ち時間が2時間半ほどあったので、初日は遅れて合流となりました。
夕食のときのミーティングで「一人ひとりが自律し、自分自身のリーダーになること。でも、困ったときは、助けを求めることに決して遠慮しないこと」という約束を皆んなでしました。私は少し緊張しながらも(両方とも、とても苦手なことだからです)、積極的に楽しむこと、出来るだけ皆んなと、気持ちの交流を持つことを自分の中で決めたのでした。

今思えば、キョーコさんのこの言葉、私には、
「私自身のことも、他の人のこともレスペクトすること(敬意を持つこと)、感謝すること」
と届いたと思っています。だからこそ、こんなにも楽しむことが出来ました。

 初日の10月6日は満月で、夕食後は、浜辺で瞑想の後、思い思いに身体を動かしました。浜辺でのダンスです。波打ち際で水と戯れながら、自由に自由に。。と言っても、私はいつもの通りギクシャクしながらでしたが(汗)。でも、月の光があって、波の音が聴こえて、砂浜に足を包まれて、瑞々しさが身体を巡るようで。

 月、海、波の音、砂、優しい風。。一体感。。
次に海に行ったら、また絶対に、体感してみたいです。

 2日目は、実はダウンしてしまい、シュノーケル体験は出来ず。一人ホテルに残りました。
早速、ダメだな。。私、という自己嫌悪に包まれ(これもいつものパターン)、でも、午後から30分くらい、近くのビーチで泳ぎました。わりと広いビーチですが、だーーれもいなかったので、好き勝手しました。浜辺で思い切り自撮りしたり。。誰の目も気にせず、自然に囲まれて、そこには私一人。自撮りバシャバシャって、アホみたいですがホント気持ち良かったんですよ。あー、私、こういうことがしたかったんだって(自撮りもそうだけど、人の目を気にしないってことが)。



海も空も独り占め。誰もいないビーチ。

さて、他のメンバーがシュノーケリングから帰ってきて、話を聞いたら、なんとウミガメに遭遇できたそうです!羨ましい!!他にも、お魚たちとの交流(近くに寄ってきてくれたんだよ!だったそうです^^)。。皆さん、ずっと海で、疲れもあったと思いますが、ほんっとーーーーに笑顔笑顔で、私も嬉しくなりました。

では、次の【2】で、プロジェクト3日目の「追い込み漁」へ続きます~。




朝ごはんも、毎朝、本当に美味しかったのでした♪
宿泊でお世話になったのは「サンセットリゾート徳之島」さんです。


今日も最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

今日も、皆さんの健やかで愉しい一日でありますように。