7世紀後半に、それまでの「倭」や「ヤマト」から、国号が「日本」に定着したといいます。それから1300年あまり。。
聖徳太子が遣隋使、小野妹子に持たせた文書、
「日出処の天子、書を没する処の天子に致す。つつがなきや・・」は第2回遣隋使派遣の607年。
日本という国号の起因の一つでしょうか。
「日出る」・・極東の島ですからね。
そして、私が疑問に思ったのは、それまでの「倭」「ヤマト」以前、日本という国は、民は自国を何と呼び、外部から何と呼ばれていたのだろうか、ということです。
というのは、アナトリア半島(現在のトルコ共和国のアジア地域)の「アナトリア」という名称は「アナトリコン(ギリシャ語で日出る処)」から由来していることを知ったことと(年代にすると900年くらい)、
出雲の日御碕神社では、天照大御神を「日沈の宮」に祀っていること、
又、日が沈むの英語、サンセット(Sun sets)の "set"という語彙は、
「あるべきところに戻す」
「本来の場所に収める」という意味を持っていることに、共通し、貫通する何かがあるのではと感じたからです。
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東は、物理的に、太陽がが昇る方角。
西は、思想上、太陽が本来収まる場所。
上記事由により、そう捉えることも可能ではないかと思います。
例えば、トルコ(古代ではヒッタイト)、エジプト、キリスト教から関連するとエルサレムやローマ帝国が、その威厳を我が物とするために「西が太陽」とするのは分るような気もしますが、日本でさえ、我が国の神話上での太陽神であり、皇祖神の天照大御神を「日本の夜を守る聖地」と呼ばれる神社で、「日沈の宮」とする殿に祀っている神社が存在します。
そう考えると、現在の日本という国号が定着したのが7世紀後半であるという点からも...その時期は決して「古代」ではなく、現代に近い地点であることもあり、この国には、倭やヤマト(大和)の前の国号が存在していたのではないだろうか・・という思いを持ちます。
「日出づる」とは全く関係のないような、現在の解釈で読んだ場合、全く違う意味に捉えてしまうであろう呼び名だったかもしれない。もし、そうであれば、その当時はどんな呼び名だったのだろうと、つい思いを馳せてしまうのでした。
例えば、卑弥呼共立以前の倭国大乱にも「倭国」と残されているので、縄文時代後期・・紀元前300年くらいのときに、日本国の名称がどのようなものであったのか。でも当時は、国号も何もなかったかもしれないですね。当時は、一つの国ではなく、地域の共同集合体だったでしょうか。
また、こう書いてみると、古今東西問わず、太陽(の力)を我がものにしようとする背景を想像してしまいます。
でも、結局それが、太陽に支配「されている」になってしまっている。
太陽を欲し、一方で怖れ、畏れるが故に、民を支配せざるを得ない循環と言うか。。
「太陽」は、地に住む我々からすると空に見え、又、宇宙に存在する恒星ですが、
エネルギーとしては(そう呼べるものなのかちょっと分りませんが)、人間の内に存在するもの、
いわゆる「個の象徴=均衡を司る中庸の力=自分軸」ではないかと思います。
世の権力を持つ、地球的上のほんの少数の人々は、民が個に目覚めるのが、最も怖いことでしょうから。。
私の勝手な推測ですが、民がかつて、存分に個に生きていた古い時代を思い出さないように、彼らは、民を押さえ付け、迫害し、力を奪ってきたのかもしれません。
そうやって、権力者の思惑に利用されたり、戦乱で命を散らした兵士など、建国の過程過程で犠牲となった多くの方々のことを、かつてこの国では「ヤマトタケルノミコト」と呼んだのではないかと、私は思っています。
今日も最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
今日も、皆さんの全てが輝き、光を与え合える一日でありますように。