フォーク歌手の杉田二郎が「戦争を知らない子供たち」を発表したのは昭和45年、戦後25年がたち私が中学三年生の時であった。私は、その歌を聴いて違和感を覚えた。何故なら子供の頃に住んでいた東京阿佐ヶ谷の商店街には、戦後が身近にあったからだ。
現在中野駅北口にある東京警察病院の辺りに、戦前戦中とスパイ養成学校として知られた陸軍中野学校があった。子どもの頃、その跡地は広い更地であったので、よく遊びに行った。兵士が着けていたであろう名前が刻まれたステンレス製のネックレスがたくさん落ちていた。後で調べて、それは死亡した兵士を識別するためのドッグタグであるとわかったが、子ども心にもそのネックレスの目的は実感した。その他同様に死んだ兵士を識別するためなのか、兵士の名前が刻まれた軍靴の底を形取った石膏の破片もたくさん落ちていた。
また昭和三十九年ぐらいまで阿佐ヶ谷商店街には傷痍軍人がたくさんいた。戦争で負傷して働けなくたった人達で、昼間は商店街のあちこちで物乞いをしていた。白い軍服に身を包み軍帽を被り、片足がない人は座ってアコーディオンを弾き、片腕の無い人は腕のある手に茶碗を持って立っていた。当時九歳ぐらいの私のお小遣いは一日二十円である。普段は駄菓子屋でおせんべいやチョコ、ガムなどを買って公園で食べる。その日は腕のない元兵士の茶碗に十円を入れた。その人は小さな子供からお金を貰って申し訳ないと言うような悲しそうな、切なそうな複雑な笑顔を浮かべたのを今でも覚えている。母は、「彼らはたくさん戦争の恩給を貰っているから、お金をあげなくてもいい。片足でもちゃんと働いているお店もある」と言った。
もうすぐ終戦記念日である。その度に少年時代の阿佐ヶ谷の記憶が蘇る。戦争自体を知らなくても、戦後のほんの一部は知っている
現在中野駅北口にある東京警察病院の辺りに、戦前戦中とスパイ養成学校として知られた陸軍中野学校があった。子どもの頃、その跡地は広い更地であったので、よく遊びに行った。兵士が着けていたであろう名前が刻まれたステンレス製のネックレスがたくさん落ちていた。後で調べて、それは死亡した兵士を識別するためのドッグタグであるとわかったが、子ども心にもそのネックレスの目的は実感した。その他同様に死んだ兵士を識別するためなのか、兵士の名前が刻まれた軍靴の底を形取った石膏の破片もたくさん落ちていた。
また昭和三十九年ぐらいまで阿佐ヶ谷商店街には傷痍軍人がたくさんいた。戦争で負傷して働けなくたった人達で、昼間は商店街のあちこちで物乞いをしていた。白い軍服に身を包み軍帽を被り、片足がない人は座ってアコーディオンを弾き、片腕の無い人は腕のある手に茶碗を持って立っていた。当時九歳ぐらいの私のお小遣いは一日二十円である。普段は駄菓子屋でおせんべいやチョコ、ガムなどを買って公園で食べる。その日は腕のない元兵士の茶碗に十円を入れた。その人は小さな子供からお金を貰って申し訳ないと言うような悲しそうな、切なそうな複雑な笑顔を浮かべたのを今でも覚えている。母は、「彼らはたくさん戦争の恩給を貰っているから、お金をあげなくてもいい。片足でもちゃんと働いているお店もある」と言った。
もうすぐ終戦記念日である。その度に少年時代の阿佐ヶ谷の記憶が蘇る。戦争自体を知らなくても、戦後のほんの一部は知っている