ビタミンおっちゃんの歴史さくらブログ

STU48 音楽、歴史 などいろいろ

◎モーツァルトとピアノ 7 ケッヘル(4)

2012-11-24 20:29:13 | HKT48 AKB48
◎モーツァルトとピアノ 7 ケッヘル(4)

★ケッヘルのモーツァルトの作品目録のその後

○パウル・フォン・ヴァルダーゼーによる第2版(1905年)
・新たに発見された11の作品を加えたりしたが、ケッヘルの年代順にはほとんど変更を加えなかった

アルフレート・アインシュタインによる第3版(1937)
・物理学者のアルベルト・アインシュタインの親戚にあたる人物
・ケッヘルの第1版を不完全なものとして批判し、作品番号の大幅な改訂を行なった
・ケッヘルが巻末に置いていた「疑義ある作品」などについても、本編に組み込んだ
・ダブルナンバー(ケッヘル番号/アインシュタイン番号)による目録を完成させた

○第6版(1964年)
・配列変更などが行われた

○第8版(1983年)
・今のところ最新版となっている

現在、新たな改訂作業が進行中という

★しかしながら、ケッヘルの功績を否定することはできないし、
 ケッヘルの業績を超えることはできない


モーツァルトの全作品数は?

・正確な作品数はわからない
最後は「K.626」であるから全626曲というのはまちがい

・作品がモーツァルトの真作であるかどうか決められないケースがある
・モーツァルト自身が作曲したと述べているのに楽譜が現存しないケースもある
・「断片」など未完のものを数に入れるかどうか
・おそらく580~800曲前後になるだろうと言われている


◎モーツァルトとピアノ 6 ケッヘル(3)

2012-11-24 20:26:59 | HKT48 AKB48
◎モーツァルトとピアノ 6 ケッヘル(3)

ケッヘルのモーツァルトの作品目録の作成の方法

○モーツァルトの作品を成立年代順に並べる
○同時に、ジャンル別にまとめ、ジャンル内でも若い順に並べる

★ケッヘルは、ノートに記入していくのではなく、1作品についてカード1枚をあてるカードシステムの方法をとった
○ノートでは収拾がつかなくなるが、カード式であるため、いくらでもデータの入れ替えが可能となる

・具体的には、カードとしてA3判ほどの5線紙を使用し、譜例、小節数に関するデータ、直筆譜、写譜、出版譜の有無、保管先などが記載された

○最終的に、全体として成立順に通し番号をふった

成立年代がわからないものは、推定にもとづく作曲年の最後にまとめられ、アスタリスクがふられた

ケッヘルは、「真作」かつ「完成した作品」に限定して番号をあたえ、それ以外のものは一括して補遺の部分にまとめた

★こうして10年以上もの歳月をかけてモーツァルトの作品目録が完成した(1862年)
・1784年以降の作品(モーツァルト自身の作品目録にもとづく)179
・1784年よりも前の作品 447
合計 626

★「ケッヘル番号」について
○1867年、ヤーンのモーツァルト伝の第2版が刊行された
作品の名前のすぐあとに丸かっこで作品番号が記載され、そのすぐ後に「K」という文字が書かれていた

★ケッヘルは1877年6月3日、ウィーンの住居で亡くなった
・亡くなって2日後、アウグスティーナ教会で盛大な葬儀が行われた
・葬儀の3日後の追悼式では、生前のケッヘルの望みにしたがってモーツァルトの「レクイエム」が演奏された


◎モーツァルトとピアノ 5 ケッヘル(2)

2012-11-24 20:24:41 | HKT48 AKB48
◎モーツァルトとピアノ 5 ケッヘル(2)

モーツァルトの作品目録の作成の契機

○1851年(モーツァルト没後60年の年)、ケッヘルのもとに友人のフランツ・ローレンツからローレンツの自費出版の本「モーツァルトのこと」が送られてきた
・そこには、モーツァルトが残した全作品中、印刷されているものはわずか3分の1にすぎず、他の多くについても劣悪な保存状態にあるという
・モーツァルトの作品が遅かれ早かれ散逸するのではないかという懸念が記されていた

・ケッヘルは「モーツァルトのこと」の本が契機となり、おそらくこの年、1851年からモーツァルトの作品目録の作成を開始した

★ケッヘルがモーツァルトの作品目録を作成するにあたり、重要文献として参照したもの

・出版社が発行している作品目録
 作品番号は作曲順ではなく、楽譜が出版された順に割り当てられた
 ピアノ曲、歌曲、室内楽が中心となる

・モーツァルト自身によるもの「私の全作品の目録 1784年2月から1791年11月」
 必ずしも時系列的な記載になっていない
・父レーオポルトによる幼少期の作品目録「当12歳の少年が、7歳の折から作曲し、そのオリジナルも明示できる全作品の目録」

・アロイス・フックスによる「モーツァルトの全作品目録」(1843)
 「全作品」といっても、自身のコレクション中の「全作品」
・フックスの目録は彼の死後、友人のヨーゼフ・ハウアーの所蔵となるが、ヨーゼフ・ハウアーはみずからが所蔵するモーツァルト関係の資料とともに、フックスの目録をケッヘルに寄贈した

・レオポルト・フォン・ゾンライトナーによる「モーツァルトの全作品目録」
 「全作品」といっても、自身のコレクション中の「全作品」

○ケッヘルは、モーツァルトが作った、あるいは作らなかった曲にはどのようなものがあったのか調査した
・直筆譜の残っているものはそれにあたった
・フランクフルトにいるアンドレの3人の息子(1799年、未亡人のコンスタンツェが亡き夫の直筆譜をアンドレに売却し、アンドレの死後息子たちの手に渡った)を訪ね、直筆譜を調査した
・直筆譜のないものについては写譜、印刷譜を参照した
・各地の図書館や音楽愛好家のところへおもむき、直筆譜や写譜にあたった
・ロンドンの大英図書館にまで足を延ばした

○ケッヘルは、直筆譜や写譜を収集し、収集できないものに関しては、自分の手で書き写し、あるいは写譜屋に依頼して、コレクションに加えていった

★ケッヘルのモーツァルトの作品目録の作成が大詰めをむかえていたころ、考古学ならびに文献学の大学教授であったオットー・ヤーンによるモーツァルト伝「W・A・モーツァルト」が出版された(1856年~1859年にかけて)
・このモーツァルト伝を読んだケッヘルがヤーンに手紙を送り、二人は出会い友人となったのであろう


◎モーツァルトとピアノ 4 ケッヘル(1)

2012-11-24 20:22:12 | HKT48 AKB48
◎モーツァルトとピアノ 4 ケッヘル(1)

★以下のケッヘルに関する記事は、おもに「モーツァルトを「造った」男」(小宮正安 講談社)によりました
○モーツァルトは有名であるが、ケッヘルという人がいなければモーツァルトの作品はどれほど後世まで残っただろうか、ということを考えるとケッヘルの功績はもっと称えられるべきである

★ケッヘル(ルートヴィヒ・アロイス・フェルディナント・ケッヘル 1800~1877)は、モーツァルトの全作品をジャンルごとに分類し、成立年代順に通し番号をふり、史上初のモーツァルト作品目録(「モーツァルト全音楽作品の年代別主題別目録」)を完成させた

★モーツァルトの曲に付いている「K」は、ケッヘルの頭文字からとられたものである

ケッヘルの目録には、通し番号はふってあるが、その番号の前に「K」という文字はつけていない

ケッヘル本人は、モーツァルトの作品番号を「ケッヘル番号」などとはいっさい呼んでいない
・本人はあくまでも脇役の立場をとっていた

★ケッヘルについて

・ケッヘルは1800年1月14日、オーストリアのシュタインという町で生まれた

・ケッヘルの父親は、結婚当時、バッサウ司教宮殿の管財人のポストについていて、ケッヘルはバッサウ司教宮殿のなかで育った
・ケッヘルが10歳になった1810年に、一家は「フライハウス」と呼ばれていた2階建ての家に引越した

・1810年、ケッヘルは隣町のクレムスのギムナジウムに入学する
・ギムナジウムでは、ラテン語、歴史、地理、自然史、博物学、数学が通常教えられていた
・ケッヘルは、大学進学志望組だったために、さらに2年間の哲学コースを修め、最優秀の成績で卒業した(1816年)
・この哲学コースの内容は、哲学、数学、応用数学、物理学、世界史、宗教学と広い範囲におよぶものであった
・ケッヘルはウィーン大学に進学し法学部に進む

・1823年、卒業試験を受け、ある貴族の家の家庭教師となる
・やがてカール大公(ハプスブルク皇帝フランツ1世の弟)一家の家庭教師のひとりとなり、ウィーンの中心街にあったカール大公家の宮殿内の住まいに住み込む身となった
・ケッヘルはカール大公の4人の息子たちに、読み、書き、計算、地理や歴史、自然など一般教養を担当して教えた

○ケッヘルは幼年時代から鉱石や植物の収集を好んでいた
・1828年、鉱物学者モースがウィーンの帝立鉱物標本館に招かれ、2年間にわたっておこなった講義をケッヘルは聴講しに出かけた
・ケッヘルは1830年から晩年にいたるまで鉱石を収集することになり、1875年、鉱石コレクションならびにその目録、植物採集標本などを母校のギムナジウムに寄贈した
・ケッヘルは3288個の鉱石コレクションの付録として、採集年、採集地、種類を記したカードを作成し、鉱石とカードに共通の通し番号をふりあてた