◎宝塚歌劇 7 歴史 5 戦時下の宝塚と初の海外公演
◎戦時下の宝塚と初の海外公演 その1
★盧溝橋事件(おもに「盧溝橋事件」江口圭一、岩波書店 によります)
●昭和12年(1937年)7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍の衝突事件が起こった
・盧溝橋は北平(ペーピン、現在の北京)の西南約15キロにある人口約2000人の町で、宛平県城がおかれていた
宛平県城の西側を流れる永定河に盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)という石橋がかけられている
北平付近には中国第29軍が配置されていた
第29軍の第37師、第110旅、第219団の第3営(長 金振中)が宛平県城に配備されていた
1900年の義和団事件の後始末として、1901年9月7日、清国と11か国との間に北京議定書が結ばれた
そのなかで、清国は「各国がその公使館防禦のために公使館所在区域内に常置護衛兵を置くの権利を認め」、「天津など12地点を占領することを認めた」ため、列国は北京・天津を中心に軍隊を駐屯させた
日本は支那駐屯軍を配備し、天津に司令部がおかれた
昭和12年7月7日夜、支那駐屯軍に所属する日本軍(歩兵第1連隊第3大隊の第8中隊)が盧溝橋で夜間演習をおこなっていた
問題は第8中隊(長 清水大尉)が、中国の金振中部隊の、鉄道線路をはさんだだけの目の前で、連日猛演習を行なっていて中国側を刺激していたことである
中国側は「日本軍が我が陣地の百メートル以内に進入したら射撃してもよく」と、攻撃を受ければ応戦する態勢をととのえていた
○7日の経過
・清水大尉の第8中隊は7月7日午後7時30分から夜間演習を行った
・午後10時30分ころ、接敵訓練をおえ、翌朝のあけがたまで休憩するため清水中隊長は演習中止・集合の命令を伝達させた
・すると仮設敵の軽機関銃が射撃(空包)をはじめた
この射撃は、伝令を演習上の敵と勘違いしたものとされている
・午後10時40分ころ、清水中隊長は演習地の北側にある龍王廟の方向から約3発の実弾が発射され、頭上約10メートルを通過するのを感じた
・清水中隊長は集合ラッパを吹かせた
・すると鉄道橋に近い堤防方向(宛平県城の城壁の方向ともいう)から10数発の射撃を受けた
・集合した中隊を点検したところ、志村2等兵がいないことがわかった
・清水中隊長は伝令を出し、豊台の一木大隊長に報告させた
・午後11時ころ、行方不明の志村2等兵が無事にもどってきた
○射撃の真相
①最初の射撃は日本軍の軽機関銃の空包射撃の閃光を見て、つぎの射撃はラッパ音を聞いて、中国軍が反射的に発した
または
②道にまよって中国軍の陣地に近づいた志村2等兵に対する威嚇射撃およびラッパ音に対する反射的な射撃
のいずれかであろう
○8日の経過
・報告を受けた一木大隊長は8日午前0時20分、出動命令をくだし、午前2時3分、西五里店で待機中の第8中隊と出会い、行方不明の兵士が見つかったとの報告を受けた
・一木大隊は午前3時20分、宛平県城の東方のやや北にある一文字山を占領した
・午前3時25分、一木大隊長は龍王廟方面にて3発の銃声を聞いた
一文字山の自軍をめがけて射撃を受けたわけではない
・午前4時20分、一木大隊長は全部隊に戦闘開始の命令をくだした
・7月8日午前5時30分、戦闘が開始された
・日本軍は永定河の中洲、さらに右岸(西岸)にわたって中国軍を攻撃した
○牟田口部隊長、一木大隊長は何の被害もなかったのにかかわらず「不法射撃(実際は銃声を聞いたにすぎない)」を日本軍に対する「冒涜」として攻撃命令をくだした
7月8日午前5時30分の攻撃は牟田口部隊長、一木大隊長が日本軍の「面目」「威信」をたもつために一方的におこしたものである
○停戦協定の成立
・7月11日、「解決条件」がまとまり、停戦協定が成立し、日本軍は盧溝橋から豊台へ引き上げた
◎ところが、現地で停戦協定が調印されたのに、7月11日、近衛文麿内閣が、「北支事変」と命名し「重大決意」のもとに華北へ派兵を決定し、中国との戦争を拡大する道に進む
●昭和13年(1938年)4月1日、国家総動員法が公布された
これは物資・資金・設備・労働力などの人的物的資源を政府が勅令により思いどおりに統制・徴用できるというものだった
◎戦時下の宝塚と初の海外公演 その1
★盧溝橋事件(おもに「盧溝橋事件」江口圭一、岩波書店 によります)
●昭和12年(1937年)7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍の衝突事件が起こった
・盧溝橋は北平(ペーピン、現在の北京)の西南約15キロにある人口約2000人の町で、宛平県城がおかれていた
宛平県城の西側を流れる永定河に盧溝橋(マルコ・ポーロ橋)という石橋がかけられている
北平付近には中国第29軍が配置されていた
第29軍の第37師、第110旅、第219団の第3営(長 金振中)が宛平県城に配備されていた
1900年の義和団事件の後始末として、1901年9月7日、清国と11か国との間に北京議定書が結ばれた
そのなかで、清国は「各国がその公使館防禦のために公使館所在区域内に常置護衛兵を置くの権利を認め」、「天津など12地点を占領することを認めた」ため、列国は北京・天津を中心に軍隊を駐屯させた
日本は支那駐屯軍を配備し、天津に司令部がおかれた
昭和12年7月7日夜、支那駐屯軍に所属する日本軍(歩兵第1連隊第3大隊の第8中隊)が盧溝橋で夜間演習をおこなっていた
問題は第8中隊(長 清水大尉)が、中国の金振中部隊の、鉄道線路をはさんだだけの目の前で、連日猛演習を行なっていて中国側を刺激していたことである
中国側は「日本軍が我が陣地の百メートル以内に進入したら射撃してもよく」と、攻撃を受ければ応戦する態勢をととのえていた
○7日の経過
・清水大尉の第8中隊は7月7日午後7時30分から夜間演習を行った
・午後10時30分ころ、接敵訓練をおえ、翌朝のあけがたまで休憩するため清水中隊長は演習中止・集合の命令を伝達させた
・すると仮設敵の軽機関銃が射撃(空包)をはじめた
この射撃は、伝令を演習上の敵と勘違いしたものとされている
・午後10時40分ころ、清水中隊長は演習地の北側にある龍王廟の方向から約3発の実弾が発射され、頭上約10メートルを通過するのを感じた
・清水中隊長は集合ラッパを吹かせた
・すると鉄道橋に近い堤防方向(宛平県城の城壁の方向ともいう)から10数発の射撃を受けた
・集合した中隊を点検したところ、志村2等兵がいないことがわかった
・清水中隊長は伝令を出し、豊台の一木大隊長に報告させた
・午後11時ころ、行方不明の志村2等兵が無事にもどってきた
○射撃の真相
①最初の射撃は日本軍の軽機関銃の空包射撃の閃光を見て、つぎの射撃はラッパ音を聞いて、中国軍が反射的に発した
または
②道にまよって中国軍の陣地に近づいた志村2等兵に対する威嚇射撃およびラッパ音に対する反射的な射撃
のいずれかであろう
○8日の経過
・報告を受けた一木大隊長は8日午前0時20分、出動命令をくだし、午前2時3分、西五里店で待機中の第8中隊と出会い、行方不明の兵士が見つかったとの報告を受けた
・一木大隊は午前3時20分、宛平県城の東方のやや北にある一文字山を占領した
・午前3時25分、一木大隊長は龍王廟方面にて3発の銃声を聞いた
一文字山の自軍をめがけて射撃を受けたわけではない
・午前4時20分、一木大隊長は全部隊に戦闘開始の命令をくだした
・7月8日午前5時30分、戦闘が開始された
・日本軍は永定河の中洲、さらに右岸(西岸)にわたって中国軍を攻撃した
○牟田口部隊長、一木大隊長は何の被害もなかったのにかかわらず「不法射撃(実際は銃声を聞いたにすぎない)」を日本軍に対する「冒涜」として攻撃命令をくだした
7月8日午前5時30分の攻撃は牟田口部隊長、一木大隊長が日本軍の「面目」「威信」をたもつために一方的におこしたものである
○停戦協定の成立
・7月11日、「解決条件」がまとまり、停戦協定が成立し、日本軍は盧溝橋から豊台へ引き上げた
◎ところが、現地で停戦協定が調印されたのに、7月11日、近衛文麿内閣が、「北支事変」と命名し「重大決意」のもとに華北へ派兵を決定し、中国との戦争を拡大する道に進む
●昭和13年(1938年)4月1日、国家総動員法が公布された
これは物資・資金・設備・労働力などの人的物的資源を政府が勅令により思いどおりに統制・徴用できるというものだった