ビタミンおっちゃんの歴史さくらブログ

STU48 音楽、歴史 などいろいろ

◎宝塚歌劇 4 歴史 2

2014-08-17 07:17:51 | 宝塚
宝塚歌劇 4 歴史 2

宝塚少女歌劇団誕生

箕面有馬電気軌道は当初は、大阪から箕面までと、大阪から宝塚を通って有馬までに鉄道を敷く予定だった
 箕面公園と有馬温泉が目的だった

 しかし宝塚から有馬までの工事認可が遅れ、計画を変更せざるを得なくなり、有馬温泉まで電車が通じるまでは、終点の宝塚に人を集めようと考えた

 宝塚は温泉で知られていたが、温泉ではなく冷泉(炭酸泉)で、元湯を確保し汲み上げた炭酸泉を1か所で温めて各旅館に配給する一方、集客力のある新しい温泉施設を作ろうとした
 ところが地元の有力者や地主たちの要求が法外なものであったため、一旦計画を白紙に戻すことにした

 代わりに、昭和43年(1910年)11月に箕面に動物園を開いた
 ところが猛獣の危険性や飼育費、維持費がバカにならなかった
 それと動物の糞などによる農業への悪影響などが懸念されて、大正5年(1916年)に閉園となる

 再び宝塚に目を向けることになり、既存の温泉街の川向いになる武庫川左岸の川原の埋立地に新たな温泉施設 宝塚新温泉を建設する計画を立てた

 明治44年(1911年)5月1日、宝塚新温泉が営業を開始した

 7月には宝塚新温泉の中に、プールを中心とする娯楽施設である「パラダイス」と呼ぶ新館を作った

 ところが「パラダイス」は失敗だった
 当時は男女が共にプールで泳ぐことは禁止されていたことや、水温調節の装置がなく、屋内プールであるため水が冷えすぎて、利用客が極めて少なかった
 プールの水はぬいてあり、一三はこのがらんとした空洞に人をひきつけるものは何かと考えた

 ヒントを与えたものは、大阪の三越百貨店でやっている「少年音楽隊」だった

 明治42年(1909年)三越の東京本店に「少年音楽隊」が結成された
 2、30人の少年で組織するブラスバンドだった
 大正元年(1912年)には大阪の三越でも同様のものができた
 これを宝塚新温泉でやったらどうか

 演奏場所は「パラダイス」を改造する
 プールの水槽だったところは、床をはり客席とし、座ぶとんを敷いて座ってもらう
 脱衣場を改造して舞台にする
 舞台の下は楽屋にする
 2階の見物席は桟敷にする
 500人収容ぐらいになることがわかった

 三越のものとそっくり同じものをまねするのはつまらないので、少年のかわりに少女だけで唱歌を歌わせようという「宝塚唱歌隊」を組織することになった
 少女の可愛らしさもあるが、一番の理由は人件費が安く上がることにあったそうだ

「宝塚唱歌隊」

・大正2年(1913年)7月15日、第1期生として14、5歳の少女16名が採用された

 採用された者には日給25銭が支給された
 芸名をつけることになり、小倉百人一首の歌の中から選ぶことにした
 「宝塚唱歌隊」、初代タカラジェンヌの誕生である
 宝塚音楽学校ではこの日7月15日が創立記念日とされている

「宝塚少女歌劇団」

 女子唱歌隊は学校用の唱歌では売り物にならない、ということで、「その時、世間に発表されているものには、本居長世氏作の喜歌劇「浮(うか)れ達磨」と北村季晴氏作歌劇「ドンブラコ」即ちお伽話桃太郎一代記があるのみであったから、先ずそれを唯一の教科書として練習すると、此の調子では彼女達でも舞台にのせる事が出来るという結論が出て、それなら宝塚唱歌隊というがごとき幼稚なる名称より、宝塚少女歌劇団と改名して旗揚げしようということにきまったのである」

第1回公演

 宝塚唱歌隊は大正2年12月、宝塚少女歌劇養成会と改称され、9か月の練習ののち、大正3年(1914年)4月1日、第1回公演が行われた

 入場料は無料
 出しものは3本立

・歌劇「ドンブラコ」(桃太郎昔噺)(北村季晴作)
・喜歌劇「浮れ達磨」(本居長世作)
・ダンス「胡蝶の舞」(宝塚少女歌劇団作)

これだけでは吸引力が弱いと、「婚礼博覧会」という催しものをやらせることにした

 16人の少女たちは、一生懸命に舞台をつとめ、真面目さ可憐さが観客の胸を打った
 「呼吸がはずんでしゃがれ声の棒読みせりふ、長い日の稽古効果も消し飛んで関西弁まる出しのアクセント、それでも覚えただけの科白は最急速度で進む、まさに懸命だ」

 こうして60日間、大入満員であった

宝塚音楽歌劇学校

・大正8年(1919年)1月、文部省より認可を受け、宝塚少女歌劇養成会は解散し、「宝塚音楽歌劇学校」が設立され、小林一三は「宝塚音楽歌劇学校」の初代校長に就任した
 それ以来、小林一三は「校長先生」と慕われた

 小林一三の命日1月25日は雅号からとった「逸翁デー」と名付けられている

・「宝塚音楽歌劇学校」を母体とし、卒業後は研究科の生徒として「宝塚少女歌劇団」を編成する制度ができた(学校と歌劇団は一体である)

 この制度は昭和14年(1939年)12月に学校(「宝塚音楽舞踊学校」と改称)と歌劇団が分離するまで続いたが、伝統が残されて、歌劇団の団員となっても「生徒」と呼ぶようになった

・「宝塚少女歌劇団」は昭和15年(1940年)に「宝塚歌劇団」と改めた

・「宝塚音楽舞踊学校」は昭和21年(1946年)に「宝塚音楽学校」と改称され現在に至っている