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◎宝塚歌劇 8 歴史 6 戦時下の宝塚と初の海外公演

2014-09-15 15:21:01 | 宝塚
宝塚歌劇 8 歴史 6 戦時下の宝塚と初の海外公演

戦時下の宝塚と初の海外公演 その2

初めての海外公演 第1回ヨーロッパ公演(ドイツ・イタリア・ポーランド)

○「日本文化の、美しい、麗しい、芸術的の一面を世界に紹介し度い、というのが誰に頼まれたのでもない、只だ、神様から命ぜられた私の責任として、老来の希望であったのであります(小林一三、「独伊芸術使節として渡欧するに際して」)」(「宝塚百年の夢」)

昭和13年(1938年)10月2日、「日独伊親善芸術使節団」として、団長 小林米三、秦豊吉総監督、組長の天津乙女、以下生徒30名とスタッフらが日本郵船の靖国丸で神戸港を出発し、ドイツ・イタリア・ポーランド3国26都市で公演を行い、翌年3月4日に伏見丸で帰国した

 「日独伊親善芸術使節団」はドイツ、イタリアの満州国承認を感謝する親善公演として、ドイツの宣伝省文化局、イタリアの民衆文化省を窓口に企画されたことになっている

 神戸港を出発し、上海、香港、シンガポール、ペナン、コロンボと寄港するたびにその地で慰問公演を行いながら、11月4日にナポリに到着した
 使節団の総監督 秦豊吉は、「ガールズ・オペラ」では劇場を借りることができないと知り、宝塚歌劇団の名称をドイツ用に「歌舞伎舞踊集団宝塚」と変更し、演目はレビューではなくすべて能・狂言・歌舞伎・日本舞踊などの伝統芸能であるとした
 使用を許可された劇場は、ベルリンの国立オペラは拒否されて、大衆向けとされていた国民劇場となった

・演目は「大島節」「三番叟」「紅葉狩」「棒しばり」「五人道成寺」「宝塚音頭」「かっぽれ」「曽我対面」など


「乗り打ち」公演

・公演会場(その土地)に行くことを「乗り」という
 その日が「乗り日」
 前日に行くことを「前乗り」するという

 劇場に入ったその日に公演本番があることを「乗り打ち」という

 朝から劇場に入り、機材などを搬入し、設営し、舞台稽古、通し稽古をし、夜本番を行う

○ベルリン国民劇場にはじまった海外公演は、ほとんど、朝到着してその日の夜に公演、その後移動という過酷なスケジュールの「乗り打ち」公演だった

 厳寒のドイツで暖かいバスもシャワーも使えないようなホテルを転々とした巡業であったという

 11月26日、ポーランドに向かい、ワルシャワに入り、国立劇場テアトル・ウィルキイで公演した
 12月1日にワルシャワを発って、鉄路ベルリン、ミュンヘン、トリエステを経て3日フィウメに到着、食堂車も弁当の手配もつかず空腹で貧血を起こすものがでたという
 翌朝発って、午後ヴェネチア着、夜公演というスケジュールでイタリア公演がはじまった
 12月15日の公演にはムッソリーニ首相夫妻、イタリア皇后と王女4名が観劇した(「宝塚というユートピア」)


アメリカ公演

・昭和14年(1939年)4月6日、横浜港から鎌倉丸でアメリカ公演に出発した(7月4日横浜港に氷川丸で帰国)

 組長小夜福子、春日野八千代ら生徒40名が、「訪米芸術使節団」としてホノルル、ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨークなど9都市で公演した
 4月26日、サンフランシスコのオペラハウスでアメリカで初めて第1回公演をした

 演目は「宝塚をどり」「軍平のおどり」「ミス・トーキョー」「彦根屏風」「棒しばり」「娘道成寺」など