「会社にそっぽを向ける人」と「仕事にそっぽを向ける人」。変なタイトルでしょう。今日はその一回目。「会社にそっぽを向く人」を。
そもそも論でいうならば、「会社にそっぽを向ける人」とはどういうひとか。自分の会社が嫌いな人。評価されていない人。経営者が気に入らない人。商品が気に入らない人。社員が気に入らない人。組織風土が嫌いな人。いろいろな表現で表されると思います。
「自分の会社を誇りに思うか」という質問があったとき、何を基準に思うでしょうか。私のような俗人は、どんなに立派な名声を勝ち取っている会社に勤めているとしても、お給料が安ければ「会社にそっぽを向ける人」になるでしょう。「会社ご立派、私、お金無し」では。「武士は食わねど高楊枝」とはいきません。
だれしも、「こんな会社」と思うことはあると思います。それは名声のある無いに限らず。そうだとしたら、それはどんな理由なのか。もし、人間関係ならば、、、多分、どこの会社に移っても大同小異でしょうね。
少し前、というか、もうかなり前ですが、「一所懸命」をもじって「一社懸命」という造語ができました。「日本人の組織に対する帰属意識の高さ」を、当時は評価した表現ですが、最近では「一社懸命」という言葉はコワイ表現のひとつと思われていて、とくにコンプライアンス系では、「不透明な会社」「粉飾を招く会社」の象徴であるかのように思われている。
しかし、会社に対するロイヤリティーにおいて、世界的にみて日本はかなり低い位置にあります。日本人の組織に対する忠誠心は今や昔。私個人もそんなに強いとは思えない。一体感は無くなったと思います。これは、必ずしも悪いことではないです。一つの会社を軸に世の中を見るというのは「天動説」。
視点の広さ、柔軟性な見方はあるとは言い難い。
「人生50年」なら、会社人生こそわが人生ですが、定年後25年もあると考えると、どうなんでしょうね。またわが社は経験したことがないのですが、リストラや業績不振で転地や転籍を経験したとなると、あながち「会社にそっぽを向ける人」を揶揄することはできないでしょう。しかし、組織で仕事をしていくことを考えた場合、「会社にそっぽを向ける人」でも、「仲間にそっぽを向けてはいけません」よね。<font>
そもそも論でいうならば、「会社にそっぽを向ける人」とはどういうひとか。自分の会社が嫌いな人。評価されていない人。経営者が気に入らない人。商品が気に入らない人。社員が気に入らない人。組織風土が嫌いな人。いろいろな表現で表されると思います。
「自分の会社を誇りに思うか」という質問があったとき、何を基準に思うでしょうか。私のような俗人は、どんなに立派な名声を勝ち取っている会社に勤めているとしても、お給料が安ければ「会社にそっぽを向ける人」になるでしょう。「会社ご立派、私、お金無し」では。「武士は食わねど高楊枝」とはいきません。
だれしも、「こんな会社」と思うことはあると思います。それは名声のある無いに限らず。そうだとしたら、それはどんな理由なのか。もし、人間関係ならば、、、多分、どこの会社に移っても大同小異でしょうね。
少し前、というか、もうかなり前ですが、「一所懸命」をもじって「一社懸命」という造語ができました。「日本人の組織に対する帰属意識の高さ」を、当時は評価した表現ですが、最近では「一社懸命」という言葉はコワイ表現のひとつと思われていて、とくにコンプライアンス系では、「不透明な会社」「粉飾を招く会社」の象徴であるかのように思われている。
しかし、会社に対するロイヤリティーにおいて、世界的にみて日本はかなり低い位置にあります。日本人の組織に対する忠誠心は今や昔。私個人もそんなに強いとは思えない。一体感は無くなったと思います。これは、必ずしも悪いことではないです。一つの会社を軸に世の中を見るというのは「天動説」。
視点の広さ、柔軟性な見方はあるとは言い難い。
「人生50年」なら、会社人生こそわが人生ですが、定年後25年もあると考えると、どうなんでしょうね。またわが社は経験したことがないのですが、リストラや業績不振で転地や転籍を経験したとなると、あながち「会社にそっぽを向ける人」を揶揄することはできないでしょう。しかし、組織で仕事をしていくことを考えた場合、「会社にそっぽを向ける人」でも、「仲間にそっぽを向けてはいけません」よね。<font>