サロン・風変わりな人材開発の宴 

人の育成について、色々な視点から書いていきます。これは、体験記であると同時に、次の人材開発施策に対するトライアルです。

過去は変わらないが、過去の見方は変えられる。その方法は、、、

2016年12月16日 22時14分16秒 | 日記
 一昨日のブログで、「過去は変えられないが、過去の見方を変えることはできる」と申し上げました。しかし、「そうはいっても、簡単にできるものではない」と思うのが人の心。
 ここを精神論で何とかするという方法論もあるのですが、そうではなく、スキルとしてこうやればできるのではないかというものをご紹介いたします。例えばの事例で。
 数学のテストで失敗した。その原因が因数分解ができなかったとします。さて、この原因はひとつでよいのか。これをみていくとき、人、モノ、金、情報、時間等、よく企業人が言葉として用いる経営資源、それとPDCA(計画・実行・検証・是正)の掛け算でマトリックスにしてみていくのでする。
 具体的には、人について計画段階ではどうだったか。因数分解の問題ができるようになるための計画を自分は作ったか。先生からの計画についての指導はあったか。或は塾の講師はそういう計画を提案してくれたか。つまり、PDCAという四種類に経営資源の五種類を掛けると二十個のマス目ができるわけです。このマス目を明確にしないと、原因探求の抜け漏れが見えなくなるのです。こんな面倒臭いことやりたくないと思うかもしれません。それでもけっこうです。無理して二十個のマス目を埋めることが重要なのではありません。こういうマトリックスで考えることで、かなり視点が広角になるため、ヌケ・モレが防ぐことができると思っております。ためしにやってみてください。過去の見方が変わるかもしれません。
 次回は、それでもうまくいかない場合について述べたいと思います。

過去は変えられないにしても、変えられるものはあります。それは過去の見方です

2016年12月14日 19時38分26秒 | 日記
過去の出来事に「もし、~していたら」は「言っても仕方がない事」と思われています。「過去は変えられない」「人生に消しゴムなし」とか。確かに、過去の時間を取り戻してやり直すことはできません。最近の科学では、それができると理論的に証明できるみたいですが。まぁ、一般には過去は変えられないというのは、紛れもない事実。
 過去は変えられないにしても、変えられるものはあります。それは過去の見方です。過去というものはひとつですが、過去の見方はひとつではありません。「どうしてそう言う見方をするのか」という思いはよくあります。多分、第三者も私が話したことや言ったことを、そう思っているに違いありません。そうすると、十人十色の過去というものが再現されることになります。さて、ここから混乱が始まります。
 こういうとき、起きる議論は、「それはいったいどうして起きたのか」とか、「何と何が関係してそうなったのか」という質問がきます。この質問の回答の中で事実が曖昧に見えると、「いい加減なことを言うな」ということになるでしょうし、別な視点では、「そこから仮説を立てると」という見方もありうるわけです。皆さんも、どちらも体験していることでしょう。
 そして、リーダーが意思決定しなければならないとき、無理して「正しい」「正しくない」の結論を出すのは危険です。そこを身に染みて知っているリーダーは、判断はしても決断はしない。無責任な態度を示す人もいます。「判断はしても、決断はしない」というリーダーは、結局コメンテーターになります。アタマいいんですよね、こういうリーダーは。もちろんこれは皮肉です。決断しないことで、崩れていく組織を見た事がございますが、これはもう集団催眠に罹っていると言ってもよい。だれも止めることができないのですね。
 リーダー本人が判断から決断に向かうプロセスを構築するにはどうしたらよいのか。例えば参謀は必要ですね。自分を鏡のように映してくれる参謀です。わが身をただすこと。特に、長期政権の勤続疲労は気をつけないとなりません。「殿、お鍛えあそばぜ」 それは、より広い視点で見られること、変化する関係性の妥当性を的確に見て本質を見抜いて的確に判断し、決断し、実行を促すリーダーでしょうね。これができるリーダーは、過去をさまざまな視点から見ることができる人です。


「練習、きついなあ」という言葉に適した返事は、、、、。

2016年12月13日 21時53分49秒 | 日記
 子供が「いや~、練習きつかったぁ」と言ったら、なんて返しますか? 「お疲れさま」「まぁ~、ゆっくり休んで」「良く頑張ったね」「お腹すいた? なんか食べる? それとももお風呂にする?」。。。
 親子の会話なら、どの言葉でもいいです。平和そのもの。しかし、訓練、人を育成する言葉としては、どの言葉ももうひとつです。
 「正解は、、、」というと、クイズ番組っぽい。それにこの方法しかないという教育論は、そもそもおかしい。一応、私だったら、ということでご容赦頂きたく。それは、「続けてごらんなさい。そのうちラクになるから。ラクと思ったら更に厳しく」と。
これ、特にスポーツ選手なら分かりますよね。「厳しい練習だなぁ」と思っていても、そのうちにその厳しさに慣れてくる。そして、上を目ざすためにもっと厳しい練習をする。その結果、記録は伸びる。試合に勝つ。こういう良いサイクルが形成されるわけです。
 そういうと、「みんなそうやっているじゃない。でも、記録は伸びないし、勝てないし」と言われそうです。では、すかさず反論。「本当にそう思っている?」或は「一流選手の努力ってどういうのか知っている?」 どうですか? こんな言われ方をしたら。特に一流選手と比べられたら、それは嫌ですよね。
 昨日、「僅差で勝つ」と書きました。多分、一流選手と普通の選手の差を考えるに当たり、1日の練習量の差は、そんなに大きく開いていないと思っているのですが、それを合計すると膨大な差になり、結果にも反映されてくるのではないかと思うのです。
 これは会社でも同じでしょう。誤解しないで頂きたいのは、長時間働きなさいということを言っているのではないですよ。会社が終わってからの自己啓発の差が、将来、仕事の結果の差となって現れるということ。「こんな簡単なこと」は分かっている。誰だって。自己啓発って大変ですよね。でも、それが定着したら、更なる自己啓発を課してみましょう。成長が早いですよ。
 江戸時代の米沢藩の名君・上杉鷹山の言葉をご存じですか。「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬ成りけり」と。 

一度の大勝で有頂天になる人より、辛勝を重ねる勝負師に。

2016年12月12日 20時51分33秒 | 日記
「僅差で勝つ」というと、「やっと勝てた」とか「かろうじて勝った」という言葉が浮かびます。新聞の記事でも「辛勝」とか。負けた側から見たときは「惜しい逸機」「ツキ逃す」など、有難くない言葉のオンパレード。
 しかし、理に叶う「辛勝」と情けない「辛勝」は違うと思います。例えば、プロ野球で言うならば、ドラフト制度が始まって、もう半世紀は経過すると思いますが、これによって有名なチームにばかり選手が集まることなく、戦力の均等化が図られてきました。もう、どこかのチームが日本一を何年も続けることは難しい時代になりました。
 つまり、勢力が拮抗している時代にあって、僅差であっても勝てれば良しです。ちなみに、プロ野球で日本シリーズで4勝3敗で勝つことを想定する監督はなかなかの人ではないかと思います。両リーグの強いチーム同士が戦うのですから、シリーズ前に故障者でも出ない限り、互角の勝負になることを予想しているでしょう。
 言葉は悪いのですが、第6戦で全勢力を投入して負けた場合、翌日の第7戦は悲惨なことになります。とくに投手が。第7戦に投げられる人がいないというのは、敗戦が決まったも同じです。むろん、過去に3連敗してから4連勝したチームはございます。今でいうなら「神ってる」投手がいました。しかし、そんな奇跡を期待した勝負をやることは良い事ではありません。監督ともあろう人が、そういうチームマネジメントをしてはいけないと思います。無理を重ねたその投手は長続きしないかもしれないし、それ以外の投手は「自分は信頼されていない」と思うかもしれません。エース級の投手が複数いる場合は、特に注意が必要ですね。
 話しが野球に及びましたが、ビジネスでも競合と拮抗した戦いであることに変わりはございません。その際、「あれだけやったのに大勝ではなく、辛勝か」と嘆くのではなく、気持を引き締めて辛勝を続けられることが勝負師ではないかと思います。大勝して有頂天になり、その後、敗北したチームや会社は数限りなくあります。「辛勝を狙え」とはさらさら申しあげるつもりはございませんが、結果的に辛勝であるならば、改めて「勝って冑の緒を締めよ」で、次の勝負に臨みたいものです。

世の中の変化に対し、現場と二人三脚して対応できる人材開発部門が生き残るのだと思います。

2016年12月11日 14時34分20秒 | 人材開発部門
「技術立国・日本」と言う語句に危機感を警鐘する発言・記事が散見されるようになりました。これを字義通りに解釈するならば、日本の技術が衰退したということがいえるのですが、どうもそればかりではなく、発展途上国の台頭、さらには、求める技術のパラダイム変換に追随できない日本企業」と言う背景も無視できないと思います。
 まず発展途上国の台頭について、「またまだ発展途上国には、、、」と思ってはいても、人件費で勝負すると日本企業が勝てるエリアも限られてきています。それに、人件費高騰だけではありません。技術レベルでも、日本と同等かそれ以上の分野を有する発展途上国の企業も出でまいりました。そう言う会社はたくさんあるのですが気が付いていないケースもあります。よく、技術経営と言う分野で「擦り合わせ技術は日本の強み」という論調が数年前になされてきましたが、どうも最近はこの掛け声ももう一つになってきました。
 さて、もうひとつの「技術のパラダイム変換」というのは、なんといってもAI(人工知能)を中心にしたネットワークの世界。IOT(Internet of Thigs)、つまりすべてものがインターネットでつながる仕組み。去年か一昨年か忘れましたが、ドイツからだったと思うのですが、「インダストリ-4.0」とかいう言葉に端を発し、まだこれからという感はあったものの、最近では一部の電気メーカーから「IOTとは、こういうものだ」という事例も紹介され、製造業がその業態の変換を迫られる時代に突入したと思います。
 業態の変換が、単なる技術の変換という問題だけならいいのですが、注意しなければならないのは、この変換によって、付加価値がどこにいくかということが大事で、ここを考えないと「いいものは作った。そこそこ売れた。しかし儲からなかった」と言う構造にはまることに間違いありません。ここは、従来からある「お客様のニーズを聞く」とか、「当社の高い技術で」と言う次元とは、また一段違う視点で考えなければらない問題です。ここに向かう発想、思考の転換というものは、実は想像以上に容易ではないということを実感しております。
 技術と技術をつなぐとどうなるかを考えてきたのが従来の製造業ですが、製品と製品をつなぐだけでなく、製品と製品をつないで、更に顧客の業務をつなぐとどうなるか。そういうというところまで考えなければならない。従来の技術者が有する領域を超えています。しかし、そういう時代です。「そんなところは営業がやればいいではないか」という声もありますが、技術的な妥当性の検証が必要になっている部分について、技術に知見が少ない営業に期待するのは酷です。期待していないということではありません。従来の、接待・ゴルフのようなイメージの営業活動では、太刀打ちができない事態に入ってきたのではないかと思うのです。
 以上のことは、私が言及するまでもなく、世の中を賑わしている話題であるので、別段新鮮でも目新しいものでもありません。問題は、このブログの分野である人材開発。つまり、ここから人をどう育てていくかということです。本当に厳しい。難しい。しかし、そんなことを言ったら、ただのコメンテーターでしかない。従来の旧態然とした研修で良いはずがない。それに対して、OJTがあるではないかといっても、上記のようなことを考えてOJTができる上司は限られています。自信を持って「こうすれば大丈夫」ということを示すことができる上司は極めて少ないでしょう。
 近年のこの現象に対し、人材開発部門は遅れを取っていると思います。現象を認識していない場合もある。「技術のことはわからない。関心ない」と言う気持はわかりますが、そうではなく変化を見てほしいのです。細かい技術的な原理などは知らなくてよいのです。こういう世の中の変化に対し、現場と二人三脚して対応できる人材開発部門が生き残るのだと思います。

諦めないで。50代の皆さん。実は、皆さんの活躍を期待している時代になるから。

2016年12月10日 20時05分05秒 | キャリア開発
会社員の皆さんを見ていると、「なんで、そんなに自分はエライと思っているんだろう」と思うことがあります。立場で「〇〇長」と言う肩書きがつくのと比例して、その傾向が強くなりますね。
 ある会社でリストラが起きたときの悲しいお話し。人材派遣会社でから「貴方は何ができますか?」という問いが、ある部長に向けられました。そうしたら、「わたしは部長ができます」という回答。世の中に部長職という名前がつく人が何人いるか知りませんが、そんなにすごい立場・役割なのでしょうか。これは失礼な発言なので、一般論で語るのはよくないかもしれませんが。
 また、部下育成の責務があることを認識しているのはよいのですが、ほとんど丸投げだったり、判断が個人固有のものであったり、文句を言って指導したつもりになっていたり。経営者に通じるマクロ観や高度な専門性があるとは思えないケースに出くわします。もっと、自分で苦しんで考えてみたらどうなんでしょうね。これ、失礼ながら上場企業さんの部長職に見よくられるケースです。もったいない。
 ある経営者の方がこんなことを言っておられました。
 「ウチの部長ったら、朝から沢山のメールをみて、たまに返信して、それで仕事をした気になっている」と。パソコンの前にどっぷりつかって、送られてきたメールを見るのが日課になり、本当にやってほしい改革についてはノータッチ。
 そして、さらに良くないことは、50代の部長で、定年が見えてきたせいか、権限移譲のもと「これからは君たちの時代。君たちが主導でがんばってほしい」というかっこよすぎる言葉。恥ずかしくないのでしょうかね。自分で歯を食いしばって、問題に立ち向かおうという気持ちはないのでしょうか。簡単に言えば、高給をもらって逃げているだけです。そして、何かというと「腰が痛い」「BMIが」と健康のせいにする。むろん、大なり小なりそういうことはあるでしょうし、家族や介護の問題もあるでしょう。しかし、これで勝てる組織を作ることができるのでしょうか。。簡単に言えば、ぶら下がり健康法。「どうせ頑張っても、これ以上の昇給・昇格はないから、このまま音もなく、大過なく過ごしたい」のでしょう。
 実は、日本の、とくに大企業の人員構成は、50代が膨れ上がる時代を迎えます。この年代がこの気持で行くと、費用対効果と言う面で大変なコストを発生させる時代に突入するわけです。

さて、50代を非難ばかりしてきましたが、会社もよくない。折角頑張ろうとする50代に対して、「ああ、それは若い人にやってもらうから。彼らを鍛えないと」といわれる。これは、きっと寂しいに違いない。ここで権限を委譲した上に、給料も下がったら、踏んだり蹴ったりの思いでしょうね。
 「甘い。それは大企業だから、給料は下がらない。恵まれている」という言葉も聞かれます。これは個々の企業の事情もあるので、是々非々を言うべきではないのですが、とにかく、この50代の人たちに、どう頑張ってもらうか。これが、これからの日本企業の活力・業績を左右する課題であることは間違いないと思います。このテーマについては、また語る場を作りたいと思います。

世代論で考える大人。その人のコミュニケーション能力は怪しいものです。

2016年12月09日 21時55分41秒 | コミュニケーション
 「世代の違い」という言葉は、いつの世にもあります。古代エジプトにも、「近頃の若い者は、、、」という碑文があるようで、いつの時代でも同じなのですね。経験値がある大人からみれば、若い人の無鉄砲、理不尽な思考・発言・行動を「危なっかしい」「非常識」「世間知らず」と思う。当たっている面はあろうかと思いますが、ここで目くじらを立てて怒ると、若い人との溝が生まれてしまいます。
 「少し厳しくしないとタメだ」の「少し」は、発言した大人の方にしてみれば「少し」かもしれませんが、受け手である若手からみたとき、それは一律同様な反応ではない場合があります。ここがとても重要ですね。つまり、「反応が一律同様ではない」というところ。発した大人が「自分はこう思っている」と発言し、「わかったか!」と締めたあと、自己満足しないでもらいたい。「どうだ。おれは偉いんだ」なんて思うのは、事態を悪くする。つまり、聞いていた若手はどう思っているかという視点が欠けているから。つまり、コミュニケーション能力の根本的な欠如以外の何ものでもないのです。思いやりとか、そういうことではありません。相手の考えていることを推量しない姿勢は、コミュニケーション能力として不味いのです。これに気がつかないで、「世代論」を唱えるのはやめた方が良い。分かりやすい例は、「きみたちは『ゆとり世代』だから」という台詞。決してこれは怒った発言ではないのですが、若い人は「面白くない」「何とも思わない」「当たっている」「外れている」「自分は違う」等のいろいろな反応があるということを想定したほうがよい。「一律同じ」ではないのです。それは大人の人たちだって、「君たちは皆同じだよな」と言われたらどうでしょうか。大半の方は「いや、違う」と思うかもしれません。しかし、中には「確かに」「一部賛成」等、さらに木目の細かい回答が出てきそうではありませんか?。 
 「ひとりひとりと向き合う」というのは,こういう個々への反応を見た上で、個別の対応から始まると思うのです。
 よく、就活で採りあげられる「学生の皆さんに求められるのはコミュニケーション能力です」としげしげという大人たちをみていると、「そう言うあなたは大丈夫なんですか」と答えたくなります。肝心の大人だって、そのコミュニケーション能力については、威張れたものではないと思っているので。これは天に唾して言っています。自戒を込めて言っています。

「昔は昔、今は今」と割り切って考えることで、過去の延長線上で考えるクセを治したいものです。

2016年12月08日 20時56分45秒 | 日記
 リーダーというものを人材開発的に見る場合、言葉は少し不適切ですが、戦史
は参考になります。ナポレオンは、こう言っています。「戦史を読め。そして自
分ならどうするかを考えよ。決断の養成に役立つ」と。
 今日は12月8日、昭和16年のこの日、太平洋戦争が始まった日。日本軍の
真珠湾攻撃から始まったこの戦争。戦争はよくないことです。ここでは戦いの当
否は問わず、リーダーを育成する、或はリーダーが決断する、リーダーを選ぶと
いう点から、考えさせられる事項について述べたいと思います。
 1.米国と戦った連合艦隊司令長官(山本五十六)は、戦う前からこの戦争に反
  対していた。
  米軍の強さ熟知していた山本個人にとっては、「自分が指揮官やるなんて」
  と思ったことでしょう。しかし、軍人である以上、命令には逆らえない。戦
  うしかなかったのですね。そして彼の予言通り、「1年や1年半は暴れて見
  せます」という戦果は得ましたが、その後悲惨な最期に。
 2.戦勝国・米国も「らしからぬ」戦い方--真珠湾攻撃直前の緊張感の無さ
  昭和20年、勝つには勝ったものの米国も相当の痛手を受けて勝った。真珠
  湾攻撃直前の米国・ハワイは、攻撃した日が日曜日だったこともあり、「ま
  さか日本が攻めて来るなんて」という様子。(むろん、結果的に宣戦布告が
  55分遅れたという事実はありますが)
 日本は、連合艦隊司令長官・山本が乗った飛行機が撃墜されて亡くなった後、
それ以降の連合艦隊司令長官の人事が驚きの連続。海軍大学の卒業年次で決めて
いた。得意の年功序列人事。一方、米国はハワイの攻撃を受けたという理由で、
太平洋艦隊司令長官のニミッツを更迭し、なんと50人余り飛び越してキンメル
が着任。キンメルは、前からその打診があったという話もあるようですが、米国
の実力主義といえども、平時の時はみんなやりにくいだろうということで見送ら
れていたのでしょう。しかし、戦争が始まってそうは言っていられないというこ
とで、50人抜きの大抜擢。ここが日本と米国の差なのでしょうね。
 「トラ・トラ・トラ」という映画では、南雲艦隊が第二次攻撃隊をハワイに向
けて突撃させておけばよかったのかもしれようなことが描かれていましたが、そ
れは後世の人だから何とでも言える話し。連合艦隊を無傷で帰らなせないと、こ
の後の戦いは難しいという南雲の気持ちもわかります。そういう意味では、真珠
湾を遡ること約35年前。日露戦争における日本海海戦は、まさに奇跡の大勝利
で、「出来過ぎ」といえます。それが伏線となり、「日本海軍強し」という幻影
が指揮官たちを悩ませたに違いありません。「時代」「人」「装備」が違うので
すから、戦い方も違うし同じわけがない。「昔は昔、今は今」と割り切って考え
ることで、過去の延長線上で考えるクセを治したいものです。

企業内における優劣による口惜しさを越えて、ともに戦うことで他社でも通用するスキルが身につくはず。

2016年12月07日 22時14分34秒 | キャリア開発
 「成功した」「失敗した」「どちらだかわからない」「どちらでもない」「そもそも勝ち・負けなんてない」。仕事を「成功・失敗」という軸で考えるとすれば、だいたいこのどれかに当てはまると思います。この五つの項目の中で、我々企業人は、どれが一番多いのか少ないのか。パソコンでの間違っキー龍力。そのことは「失敗した」という分類ですが、いちいち気に病むものでもないでしょう。従って、「どちらだかわからない」「どちらでもない」「そもそも勝ち・負けなんてない」のどれかでしょう。では、パソコンでの正しいキー入力は「成功した」分類ですが、いちいちそれを「成功した」と思う人も多くないと思います。そう、我々企業人の通常の慣れ親しんだルーティンでは、この「勝ち・負け」的な判断でとらえることは難しい。どこか無理がございます。
 10回の仕事のうち7回は失敗する仕事。しかも、本人も周囲も誰もが気がついている。そう言う仕事があります。そう、一流の野球選手。打率三割なら一流です。しかし、一流の彼らが何故努力を続けられるか。野球が好き。年俸。ファンのため。いろいろあるでしょう。しかし、七回の失敗というのは、大きい。「なぜ、打てなかったんだ」「なぜ、こうやるのがわかっていたのにできなかった」の繰り返しでしょう。多分、そのくやしさは会社員の比ではないはず。衆人監視の中でのミステイクだから。
 我々会社員には野球の選手のような口惜しさがあるでしょうか。口惜しさは向上心のバネです。向上心が無いと、どうしても育ち方もうひとつ。しかし、会社員の口惜しさに対する向上心は、社内の同僚に迷惑のかからないフェアプレーでなければなりません。嫉妬や妬み、仕返しのようなものでないことを期待しています。残念ながらそういうものは無いとはいえませんが。
 そこで、提案があります。企業内における優劣で、口惜しさ、とくに憎しみの感情を覚えるのをやめましょう。所詮、井戸の中の蛙ではないですか。これを変えていくことで、この姿勢を堅持し続けることで相手もわかってきます。ともに手を取って戦おうと思うはず。社内の戦いに明け暮れている場合ではないです。外敵はもっと強い。もし、ここを取りもどすことかできれば、日本の会社も昔のように強くなると思っています。
 きれいごと? そう思いますか? そういうことの繰り返しを通じてチームによる力が身につくのです。それが個人における新たなキャリア開発となって、他社でも通用する能力になるとは思いませんか。

経営者を育てる際には、ペアとなる人も考えて育てられるとよいですね。

2016年12月06日 20時46分22秒 | 経営者
 「歴史を見直す」こと。簡単に言えば温故知新。いま、色々な歴史が従来とは異なる視点で見直されていることは御存じの方も多いと思います。歴史は勝者の視点から書かれるため、どうしても、敗者を悪者扱いにしたり、無能な評価を下します。故に、勝者側からの歴史の記述は歪曲されて書かれている。
 これは、人材開発でも同様で、勝った側、もう少しどぎつい言い方すると、経営者側からも見たちきの人材と、我々人材開発部門から見たときの人材の見方はイコールではないことがございます。但し、釘を指しておきたいこととしては、これがイコールではないからダメだということではないのです。経営者から見たときの優秀な人材は、あらかた人材開発部門はわかる。しかし、だからと言ってその人を「ヨイショ」するのは、人材開発部門として恥ずべき行為です。何も経営者に対し、反旗を掲げろということではありません。大事なのは、その人物上に立った時、サポートする人材を挙げて、育てる施策も考えられるとば理想なのです。
 これって、目新しい考え方ではありません。戦国時代・江戸時代でもありました。例えば、上杉謙信の養子となった上杉景勝には直江兼続がおりました。二人は子供どものときからの付き合いです。直江兼続の優秀さを見抜いた人がいて、景勝につけたのでしょう。小姓というのは、まさしく将来のご家老なのですね。
 現代の会社には、こういう長い年月をかけてペアを組ませながら育成することは少ないようです。最も著名なのはホンダさん。本田宗一郎さんと藤沢武夫さんのペアですが、しかし二人は創業時からの仲間であり、上司が組み合わせて育成したわけではございません。
 私は、多くの経営者を直接、間接に拝見させていただきましたが、直属の部下に自分のコピーみたいな人ばかり集める経営者は、やはりもうひとつだなという感じがいたします。だからといって、これで業績が良否が決まる程、経営というものは単純ではございません。
 経営者を育てるとき、その個人だけを着目するのではなく、どういう人を集めて「連合チーム」を作るか。それを考えて育てておくとよいかもしれません。しかし、上場企業の子会社の場合、いきなり親会社から落下傘で降りて来るシステムがあると、これは難しいですね。この場合、子会社の人は、「どんな人がくるのだろう」と戦々恐々だと思いますが、移籍する経営者の方も、右腕になるような部下がいない場合は、大変気の毒なものです。孤独なお立場だと思います。

「コミュニケーション能力があります」って本当ですか? 私のコミュニケーション能力の習得方法

2016年12月05日 21時41分59秒 | コミュニケーション
就活で、学生は「わたしはコミュニケーション能力があります」と答える人は多いですね。私は「また、きたか」と内心思いつつ、真摯に聞かねばならない。「ならない」というところに、すでに私の気持ちとしては、萎えているのですが。
 先日、「コミュニケーション能力があります」で入った社員が、実は職場では「電話を取らない」社員というレッテルを貼られ、早くもダメ社員の烙印を「頂いた」ようです。電話を取らないからコミュニケーション能力が無い、或はダメ社員の烙印を押すというのも早計ですが、職場の気持ちもわかります。 そう考えると、このコミュニケーション能力というものが、極めて漠たるものであり、実はいくつかの要素が絡み合って存在しているると考えなければなりません。つまり、「聞く・話す」を中心に「理解する」「察する」「読む」とか。しかし、これは、コミュニケーション能力の手段みたいなもので、その裏には「使命感」とか「責任感」みたいなものがないと、上記の「電話を取らないコミュニケーション能力」という状態を招くのかと思います。まぁ、まだ若いですから、この若い人については、しばし様子をみていこうと思います。
 コミュニケーション能力はどうやったら身に付くのか。私は、こんな方法を取ってきました。
1.例えば、ある会議でど立場が上の方が発した発言について、視線だけを動かして瞬間的に周囲の反応 を確認する。⇒いや~、いかにも会社員にありそうな。。。これ、様子を伺っていることには変わりは
 ないのですが、よく読まねばなりません。個人だけでなく場の空気も。但し、ここで黙っているのはダ
 メなんです。何かを言いしょう。「とても自分の意見なんか言えません」を切りかえす方法として、
 「これは、私の意見というより、ブレスト的な発言を許していただけるなら、こんなことが言えるかも
 しれません」と返します。緊迫した会議では、この一言が効きました。それは、コミュニケーション能 力ではないでしょうと思うかもしれませんが、成功や失敗は多少なりともあるものの、これはいろいろ
 な面で役立ちました。
2.とにかく相手を笑顔にする、又は笑わせる習慣をもつ。⇒ これは難しい? ちょっとしたことでよ いと思います。ただし、相手が異性のときは、話題には気を付けたほうがよいですね。差し障わりのな い内容がよいのですが、よく普段からどういう内容に反応するのか知っておくことです。そうです。コ
 ミュニケーション能力を養うには、継続的な人の観察は大事です。
3.普段から相手に対する敬意を払う。
4.深い思考。但し、相手の立場を考えて。

何を言っているんだと思うかもしれませんが、私はこれがコミュニケーション能力をつける方法でしたね。話法とか聞き上手であることは当然なのですが、普段の仕事に対する姿勢が大事なのかなと思っています。
 

「会社にそっぽを向く人」「仕事にそっぽを向く人」part3

2016年12月04日 13時40分00秒 | 日記
「そっぽを向く人」part3は「仕事にそっぽを向く人」。これは難しいですね。無神経な上司は、つい「ヤル気はあるのか」という質問をしてしまいがちです。これは本当に不味い。そういうと、40~50代の管理職から「甘い。昔、俺たちが若かった頃は、、、」と思うでしょうが。正直申しまして今の時代のほうが難しい時代と思いませんか?。
「仕事にそっぽを向く」のは、どんな理由から来ているのでしょう。「つまらない仕事を任された」「自分に責任が伴わないから適当にやる」「全然クリエーティブな仕事ではないから」「単純な仕事だから」など、色々な理由があると思います。そして、その言葉は、そういうものに耐えてきた世代の人にとって、不快な表現以外の何ものでもないわけです。
 「仕事にそっぽを向く人」も程度があって、全面的に「そっぽを向いている」わけではない人も大勢います。つまり、自分としては「やることはやっている」というセリフを発する人。この姿勢について、「勝手に自分で境界を作って」「制限設けて仕事をするな」と上司がいうと、人間関係が壊れる。
 「仕事はほどほど」という人生観をお持ちの方に対して、私は責めることはできないと思っています。それは誰だってそうなるとわかっているからです。例えば、もし明日が定年退職の日だとするならば、今晩徹夜で働きますか? おそらく、退職の手続をして、身辺整理をして過ごすと思います。その人に向かって、「ヤル気あるのか」とは言わないはず。
 定年退職という極端な例をもってきましので、もう少しリアルな例でいうならば、もう昇給も昇格もないことが分かった人をイメージしてください。例えば年代も40代半ば。さて、この人は昇進・昇格していく人と同じような気持ちで働くでしょうか。また、それを期待してよいでしょうか。「日本人は勤勉だから、きっとやる」と思っているとしたら、あまり現状を的確に把握しているとは思いません。
 私は、ある程度「仕事にそっぽを向く人」がいて当然と思っていますし、またそれを前提に企業経営、事業経営、職場の管理を考えないといけないと思っています。そういう状態に異論のある人もいるでしょうが、その状態を前提にして、「だからどこまでならできるのか」を模索していくしかない。
 それを無視して、長時間働かせて、ますます「そっぽをむく」としたら、それはやはりマネジメントの問題と思います。
 一方で、「それは綺麗ごとだよ」とも思います。業界によっては、会社によっては、働く時間の量と売上に相関性がある場合もあるでしょうし、数字的な目標で縛られることもあるでしょうから。
さて、「仕事にそっぽを向く」について、今日は会社の視点で書いてまいりましたが、次回は個人の視点から書いてみたいと思います。「個人の視点」は、実は危ういのです。

「会社にそっぽを向く人」「仕事にそっぽを向く人」 PART2

2016年12月03日 21時58分59秒 | 日記
昨日の続き。PART2。「そっぽを向ける人」という表現は、「そっぽを向く人」という表現に直したいと思います。さて、「会社にそっぽを向く人」は、もう少し細分化したほうがよいかと思いました。ひとつは、昨日書いた「会社にそっぽを向く人」ですが、なんかこれが曖昧ですね。人によって違うでしょうね。それでは、こういうのはどうでしょうか。「会社ではなく、職場にそっぽを向く人」「上司にそっぽを向く人」などなど。。。
 「そっぽを向くのが悪い」とは言えません。決して健全なことではないけれど、生身の人間なら誰でも大なり小なり、「そっぽを向く」ものがあるし、時としてその対象が変わることもあるでしょう。
 しかし、絶対に向いてほしくない対象がございます。それは自分自身です。自分自身にそっぽを向くというのだけは、。。これが一時的な落ち込みならばよいのでずが、長期的なものになると、人材育成の視点から見て、そしてメンタル的にも良いことではないと思うます。しかし,自分が置かれている厳しい現実に目を背けたくなる気持ちもわかります。故に「見たり、見なかったり」で、なんとかやっていけるのかもしれませんね。ずっと直視していると疲れる。滅入る。ならば、「適当に見たり、見なかったり」のそっぽを向くにつながるのでしょう。
 これ、実はタイミングというものがあって、他人から見て「見てほしい」ときに、そっぽを向いていたら、「なにやっているんだよ」と怒られます。その他人の怒りが自分に向かあことによって、またそっぽを向く対象が増えてしまうことになるかもしれませんね。
 「そっぽを向く」ことについて、ひとつ気になることは「関心が薄れていくこと」ことです。薄れてよい事、薄れてはまずい事の分別はつけてほしいですね。そして、「そっぽを向く」のもできれば分別をもってやってほしい。どうしてって、気分に流されてしまうけれど、相手がいることを忘れないでほしいですね。やはり、昨日の締めの言葉と同じ。「仲間にそっぽを向くことのないように」ですね。
次回はPART3をお届けします。

「会社にそっぽを向ける人」と「仕事にそっぽを向く人」part1

2016年12月02日 23時46分44秒 | 日記
「会社にそっぽを向ける人」と「仕事にそっぽを向ける人」。変なタイトルでしょう。今日はその一回目。「会社にそっぽを向く人」を。
 そもそも論でいうならば、「会社にそっぽを向ける人」とはどういうひとか。自分の会社が嫌いな人。評価されていない人。経営者が気に入らない人。商品が気に入らない人。社員が気に入らない人。組織風土が嫌いな人。いろいろな表現で表されると思います。
 「自分の会社を誇りに思うか」という質問があったとき、何を基準に思うでしょうか。私のような俗人は、どんなに立派な名声を勝ち取っている会社に勤めているとしても、お給料が安ければ「会社にそっぽを向ける人」になるでしょう。「会社ご立派、私、お金無し」では。「武士は食わねど高楊枝」とはいきません。
 だれしも、「こんな会社」と思うことはあると思います。それは名声のある無いに限らず。そうだとしたら、それはどんな理由なのか。もし、人間関係ならば、、、多分、どこの会社に移っても大同小異でしょうね。
 少し前、というか、もうかなり前ですが、「一所懸命」をもじって「一社懸命」という造語ができました。「日本人の組織に対する帰属意識の高さ」を、当時は評価した表現ですが、最近では「一社懸命」という言葉はコワイ表現のひとつと思われていて、とくにコンプライアンス系では、「不透明な会社」「粉飾を招く会社」の象徴であるかのように思われている。
 しかし、会社に対するロイヤリティーにおいて、世界的にみて日本はかなり低い位置にあります。日本人の組織に対する忠誠心は今や昔。私個人もそんなに強いとは思えない。一体感は無くなったと思います。これは、必ずしも悪いことではないです。一つの会社を軸に世の中を見るというのは「天動説」。
視点の広さ、柔軟性な見方はあるとは言い難い。
 「人生50年」なら、会社人生こそわが人生ですが、定年後25年もあると考えると、どうなんでしょうね。またわが社は経験したことがないのですが、リストラや業績不振で転地や転籍を経験したとなると、あながち「会社にそっぽを向ける人」を揶揄することはできないでしょう。しかし、組織で仕事をしていくことを考えた場合、「会社にそっぽを向ける人」でも、「仲間にそっぽを向けてはいけません」よね。<font>

行動力のない人よりも、行動力のある人を指導した方が期待値があると思います。

2016年12月01日 23時07分22秒 | キャリア開発
 教育という言葉は、よくできている言葉で「教える+育つ」から成ります。つまり、教えたから終わりなのではなく、場を与えないと育たないということです。これは、本当に難しいですね。
 実は、教える、つまり学ぶことによって、却って育ちが止まる人がいます。どういうことかというと、学ぶといろいろな事が見えてきます。物によっては、問題の大きさや難しさがわかる。いわゆる、先読みしてしまう。だから、「場を提供してもやらない」となります。勉強はするが仕事ができない人の典型的なタイプです。こういう人は、学生時代は成績もよく、無難に過ごして会社に入ってきた人に見られます。言葉が汚いのですが、「小利口」なひとたち。出来ない理由を、都合のよい事実をもってきて、その上に理屈をつけて「やらない」「できない」と決める。これが若い時なら手が打てるのですが、40代も後半となるとこのままかも。これは以前、お話した通りです。

 私のブログで挙げているお侍さんは、ご存じの方も多いと思いますが、吉田松陰です。この人、幼少期からスパルタ教育を受けて、その甲斐あってか、という表現が合うのかどうかわかりませんが、確か11歳で藩主・毛利敬親(もうりたかちか)に孟子を教えていたと記憶しています。松陰を学ぶことにおける早熟さ・天才と片づけてしまえば、話しは早いのですが、彼の作った松下村塾は、松陰が「教えていた」期間はわずか2年くらい。それで、あれだけの人材を輩出したのですから。。。。同じ仕事をしている自分としては驚きです。例えば久坂玄瑞と高杉晋作を競わせる演出は見事です。

 久坂や高杉の足跡を読んで、ひとつだけわかることがあります。「鶏が先か、卵が先か」の議論になるかもしれませんが、行動力のない人よりも、行動力のある人を指導した方が期待値があるということです。ちょっと極端な意見かもしれませんが、行動力の無い人を指導して、動かないなら、この考え方もありかなと思います。