宇摩地方とも呼ばれるこの地域
その中でも三島川之江地区は平野が狭い 海岸線から山の麓まで1km 長いとこでも3kmない
なぜそこにいっぱい製紙会社があるの? 昔から?
いろんな本で調べたら
土佐の和紙が 伊予に伝わって 発展した
とまあ こうなるみたい
土佐は昔から全国有数の和紙産地で 古くは平安時代の延喜式献上品に土佐の和紙の名がでてくる
江戸時代には将軍にも献上された
土佐の和紙作りは 国境を接する伊予にも伝わり 最初は金紗 富郷 新宮などの山間部での 農閑期の仕事だったのがだんだん平たん部に下りてきた
幕末頃にはかなりの生産量をあげていたが それでも 数量的にも品質的にも 全国に通用するものではなかった
それを何とか商品にしたのが 薦田篤平さん
文政6年(1823年) 上分の生まれ 坂本龍馬より10年早い
農業のかたわらの製紙業をやめ 紙製品一本にしぼり 全国から優れた職人を招いたり 修行にやったり
製紙用の道具を貸し出したり 開業資金を貸し与えたり 成功を自分のものだけにせず 製紙を地域の産業にしようとした人
次に登場するのが 篠原朔太郎(さくたろう)さん
慶応元年(1865年) 川之江の生まれ
和紙作りの職人であり技術者 製紙業の機械化に尽力された人
作品が万国博覧会で一等金牌受賞 (明治37年)
八枚漉きの技法を考案
ワラ 麻やパルプといった コウゾミツマタ以外の原料の多様化
カルキや苛性ソーダを使った処理方法の導入
重い棒で原料を叩いて柔らかくしていたのを機械化 (ビーター)
乾燥機や回転式蒸煮釜を発明
そしてこの人もまた 成功を自分のものだけにしなかった 特許を取るだけでも財産を築けたでしょうに
そして これらの紙を全国に販売したのが 三島の住治平さん
扇子を持ってる人 左は息子の二代目治平さん
天保3年(1832年) 三島の生まれ
お米を中心に船で商いしてたのが 奥さんの病気を機に 紙中心へと転換 宇摩の紙のブランド化に尽力
この人もまた成功を自分のものだけにしなかった
銀行の設立(吸収合併を繰り返し現在は広島銀行三島支店)
篤平や朔太郎とともに組合の設立 紡績所の誘致などなど 寒村だった三島のインフラ整備
二代目も尽力された紡績所誘致は従業員が500人を超える大規模なもので 昭和50年まで続き 地元女性の働き口としても大きな役割を果たした
明治40年頃のご自宅
後ろの高い木は三島神社
この三島神社の少し西あたりには 戦前まで 私の祖父も住んでおり もしかしたら子供の頃の祖父が初代治平さんに会ってるかもしれない
江戸時代というと 時代劇のような遠い昔の感じがするが 身近な人達の昔がわかってくると 点と点だったのが線でつながってくるようで なかなか面白い
お三方に共通するのは 成功を自分のものだけにしなかったこと にあるみたい