忘備録 ~四国中央市に暮らす~

忘備録か備忘録か どちらでもいいらしい

道の駅

2015年12月29日 | 2015年

昼前 友人から 松柏のセルフ石川に うどん食いに行こう と誘われる  

店まで行くも定休日 残念   見覚えある店の構えと思ってたら ここは ずっと以前 赤い風船 という喫茶店だったとこ 回りは田んぼと畑ばっかりだったような記憶があるが ずいぶんかわった   松柏周辺は浦島太郎状態だ

箕浦のうどん武蔵に変更 

途中の11号線でハーレーが前を走っている  助手席の友人が 「前 走っとんの 〇〇や」 と気づく

学生の時 私の下宿に一ヶ月ほど転がり込んできた〇〇だ

天気のいい休日は 豊浜の道の駅にハーレー仲間がよく集まるから たぶんそこに行くんだろう

やっぱり ハーレーはかっこいい 

昔は私もバイクファンで ホンダやズスキ カワサキを乗り継いで 最後はCB750Fで終わった

もうずいぶん乗ってないが一本橋は まだ自信がある   ・・・・・ような気がする

 

三島港の水の色はいつも茶色い 

仁尾の海をよく見てるので余計にそう感じるのかもしれない

まあ 工業地帯だから しょうがないんだろう

河口の色が違う

沖はきれいな色なのに

 

 


市役所

2015年12月22日 | 2015年

昼過ぎ 市役所にいく

カレー食いたいなと 食堂恐る恐る覗くと職員でなくても食えるらしい 味はまずまず 値段もまあこんなもんかな

食堂の隣には 自治労連の組合事務所があった

庁舎内にあるってことは家賃払ってるのかな?

 

えひめ国体のPR横断幕    

来年かと思ったら再来年の9月だ

 

サラリーマン時代は気づかなかったが 税金は意外と重くてシビア

車の住所変更を運輸局に出し忘れたため 半年後に関係書類が届いた時には いきなりの警告書だった もちろん延滞金付

「民間はサービスが悪ければお金は入ってこない しかし税金はサービスが良かろうが悪かろうが強制的に徴収される だから最高レベルのサービスを府民に提供しなければいけない」 と橋下さんが言ってたな

そこに住む個人や法人からいろんな税金を徴収するのは 暴力団が なわばりから場所代とるのと基本的には同じと思えるようになった

 

 

 

 


仁尾

2015年12月21日 | 釣り

仁尾にて釣り

景色がすばらしい 自然海岸がいっぱい残っている 海がキレイ 

粟島

船が頻繁に行き交う

高く飛行機の音が聞こえる 

海上保安庁の船が現れる いかにも馬力がありそうなアイドリングの音

船名は ことかぜ  相撲取りにも同じ四股名の関取がいました

救助してるのかな?

 


神風特別攻撃隊

2015年12月19日 | 2015年

初の神風特別攻撃隊の隊長として特攻で散った 関行男中佐のお墓が 村松大師の近くにある   

国道11号線沿いにたつ道標

お墓の入り口

お墓の近くには製紙工場群があり すぐ側を流れる川も きれいとは言えないんだけど

のぞきこむと 大きな鯉が泳いでいた

金色の錦鯉もいる 近くの家から逃げ出したのかな?

 

 

 


山内うどん

2015年12月17日 | 讃岐うどん

母と叔母夫婦をつれて まんのう町の やまうちうどんに行く

竹林に囲まれた 素朴な店構え

平日の11時過ぎの時間だったが 次々と お客さんが入ってくる

私は ひやあつ で母と叔母は あつあつ 

二人はそろって「熱くない」と私に言ってくる

鍋焼きうどんじゃないんだから  ペチャクチャ喋ってる間にだんだん冷めてくるし そもそも グツグツ沸騰しそうなおつゆじゃないと気がすまない二人だから この反応は予想してたとおりだ

夏は ひやあつ でいいが寒い時期は あつあつ でいいかな

 

うどんは東京に住んでる頃は昼食に食べることが多かった 

飯田橋の むさしの  利尻昆布のだしに ちくわ天をのせておにぎり二個 というのが定番だった  すぐ近くにはラーメンの斑鳩もある

ちょうど帰りみちに67番札所の大興寺さんがあり参拝

日頃 信心に縁のない私は初めてきた 

仁王門はたいそう立派で 左右の巨大な金剛力士像は なんでも 鎌倉時代の あの運慶の作だとか

「ごめんなさいね 写真を撮らせてくださいね」と力士さんに申し上げてからシャッターを押す

帰り着く頃には腹も減ってきて また食べたくなる 

すごくうまかった

 


なぜ紙の街に?

2015年12月15日 | 紙の街

宇摩地方とも呼ばれるこの地域

その中でも三島川之江地区は平野が狭い 海岸線から山の麓まで1km 長いとこでも3kmない

なぜそこにいっぱい製紙会社があるの? 昔から?

いろんな本で調べたら

土佐の和紙が 伊予に伝わって 発展した 

とまあ こうなるみたい

 

土佐は昔から全国有数の和紙産地で 古くは平安時代の延喜式献上品に土佐の和紙の名がでてくる   

江戸時代には将軍にも献上された

土佐の和紙作りは 国境を接する伊予にも伝わり 最初は金紗 富郷 新宮などの山間部での 農閑期の仕事だったのがだんだん平たん部に下りてきた

幕末頃にはかなりの生産量をあげていたが それでも 数量的にも品質的にも 全国に通用するものではなかった

それを何とか商品にしたのが 薦田篤平さん

文政6年(1823年) 上分の生まれ  坂本龍馬より10年早い

農業のかたわらの製紙業をやめ 紙製品一本にしぼり 全国から優れた職人を招いたり 修行にやったり 

製紙用の道具を貸し出したり 開業資金を貸し与えたり 成功を自分のものだけにせず 製紙を地域の産業にしようとした人

 

次に登場するのが 篠原朔太郎(さくたろう)さん

慶応元年(1865年) 川之江の生まれ

和紙作りの職人であり技術者 製紙業の機械化に尽力された人

作品が万国博覧会で一等金牌受賞 (明治37年) 

八枚漉きの技法を考案 

ワラ 麻やパルプといった コウゾミツマタ以外の原料の多様化 

カルキや苛性ソーダを使った処理方法の導入

重い棒で原料を叩いて柔らかくしていたのを機械化 (ビーター) 

乾燥機や回転式蒸煮釜を発明

そしてこの人もまた 成功を自分のものだけにしなかった 特許を取るだけでも財産を築けたでしょうに

 

そして これらの紙を全国に販売したのが 三島の住治平さん 

扇子を持ってる人 左は息子の二代目治平さん

天保3年(1832年) 三島の生まれ

お米を中心に船で商いしてたのが 奥さんの病気を機に 紙中心へと転換  宇摩の紙のブランド化に尽力

この人もまた成功を自分のものだけにしなかった

銀行の設立(吸収合併を繰り返し現在は広島銀行三島支店)

篤平や朔太郎とともに組合の設立 紡績所の誘致などなど 寒村だった三島のインフラ整備

二代目も尽力された紡績所誘致は従業員が500人を超える大規模なもので  昭和50年まで続き 地元女性の働き口としても大きな役割を果たした

明治40年頃のご自宅 

後ろの高い木は三島神社

この三島神社の少し西あたりには 戦前まで 私の祖父も住んでおり もしかしたら子供の頃の祖父が初代治平さんに会ってるかもしれない

江戸時代というと 時代劇のような遠い昔の感じがするが 身近な人達の昔がわかってくると 点と点だったのが線でつながってくるようで なかなか面白い

  

お三方に共通するのは 成功を自分のものだけにしなかったこと にあるみたい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


パソコン

2015年12月14日 | 2015年

パソコンから異音がする

原因はどうやら電源ユニットのファンとGPUのファン

スプレー式の潤滑油と ついでにCPUグリスも一緒に購入

見よう見まねでやってみたところ 異音が止んだ 

 

 


横断歩道

2015年12月12日 | 2015年

ペイントが消えかかってる横断歩道が多い

全国的に問題になってるみたい

教育にはあまり関心なし 道徳さえ守ってくれりゃいい と思うほうだが そんな自分の目から見ても

小学校正門前の横断歩道のペイントくらいは 直したほうがいい

 


箱浦

2015年12月08日 | 釣り

おとなり香川県は庄内半島の箱浦で カレイ釣りに挑戦

ここは浦島太郎が玉手箱を開けた場所

砂浜がキレイ    釣りはそっちのけで周囲を散策

この地層は何万年前?