「本物はどこだ」
彼は自分を疑っていました。自分のやることなすことは演技的で、感情を吐き出すのはそれにより何か利を得たいと思う時で打算的。イライラして叫ぶのも、悲しくて泣くのも、感情を落ち着かせる為であり、何より自分がまともであるということを確認する為。感情を吐き出す前に、複数ある理性のシグナルを見て、全てが青信号になってゲートが開くことで始めて感情を表に出す。彼は、自分に嫌悪感を持っていました。その嫌悪感を晴らす為に、理性を常に心の片隅に置き、どこまでも客観的であろうとしました。けど、心にいくら別の自分を作っても、彼らが見つめる先は空洞でした。
自らを客観的に、どこまでも俯瞰的に見ようとする子どもの頃からの癖は大人になっても変えられませんでした。別に得したいからこうあろうと思った訳でないのですが、折に触れては「生きにくい」とつぶやきます。
彼は考えました。「自身を客観的に見るのが得意なら、つまり物事を分析的に見るのが得意ということだ。この性格が一生付きまとうならば、重要なのはこの枷を友人と捉えよう」
生まれ持って変えられない性格で生きてきたからこそ、磨かれた副産物。それを懐刀として歩きだしました。進む先で出会ったのは、たくさんの色。染まっては抜けて、染まっては抜けて。中には居心地のいい場所もありましたが、ひとつの場所に腰を落ち着けることはありません。
彼が自分に色がつくのを拒むのは、彼が潔癖症だったからではなく、もっとたくさんの色に染まってみたかったからです。ひとつの色に染まるのは、例えそれが彼にとって一番似合う色だとしても良しとはしません。彼はしばらくして、自分自身に色を塗る遊びを覚えました。彼は自分の本来の色を知るより、今度は何色に染まるかに興味があったのです。「今日は何色になろうか」。つぶやいて、彼は気づきました。この好奇心だけは、まぎれもなく自分にとっての本物だと。
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