私は人の写真を撮るのが好きだ。いい写真を評価されるより、写真で相手に喜んでもらえることが好きだ。他人の為になりたいという承認欲求が大元にあって、それを満たす為に写真を撮っている。つまりカメラは手段に過ぎない。
だからその欲求が満たせれば、その手段はカメラじゃなくてもいい。例えば絵でも、言葉でも、マッサージでも人命救助でも介護でも何でもいい。写真を撮りたいという感情は、少なくとも普通の人より撮影技術があって、それゆえにお役に立てると信じるからだ。風景写真も物撮りもスナップも結局、人が喜ぶ写真を撮る為の練習に過ぎない。
何故私は他人の為に役立ちたいと考えるのか。凄いと思われたいという欲望と切っても切り離せない。もっと効率的に出来る最大限のサービスを考えたい。
「君は真面目すぎる」
過去に言われた。規範を守るという意味の真面目じゃなく、妥協できないという真面目さ。ジグソーパズルがあと1ピースで完成するのに、それをはめずにいられない時のもどかしさ。この感情に忠実なのだ。そしてこれを適用しようとする範囲が広すぎる。
私は自分が汚れることに対して躊躇がない。面倒だろうが関係ない。自らの被害を省みずに行動する。結果にはすべからく原因がある。行動には何か理由がある。何故私はそうなのだ。普通は自己の利益をもとに自らの行動にブレーキをかける。多分私はその機能が弱い。
世の中他人の為に動く人はもっとたくさんいる。自分は特別じゃない。私と彼らで違うとすれば、たぶんひねくれ具合。私は私がひねくれた理由をおおよそ知っている。けどそのひねくれた心を戻す方法はわからない。戻した方が生きやすいのはわかる。
黒い心は抱えてるけど、だからこそ他人に求められたい。その欲求が私の行動原理だ。それでいい。これ以上考える必要はない。
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