淫らな夜に唾を吐きながら飛び惑う鳥だった、嘔吐のように溢れ出る鳴声のせいでいつでも水が欲しくてたまらなかった、カットされた景色のような電信柱の影をかすめながらうち捨てられた巨大なマンションの最上階のベランダに旋回を繰り返しながら降りてゆく…割れたガラスで足を傷つけぬようにしなければ、寝ているうちに血を流していたなんて先に目覚めるだろう女に何と思われるか判らない。
派手に破壊された窓から中に忍び込む、光源が何も無くとも充分に明るい最上階だ、数十年は前のささやかな暮らしの名残が時を口ずさむように白くくすんでいる…首を吊って死んだアイドルのグラビアが「どこに行けばいいのかしら」というような調子で開かれたままぼんやりしている、おそらく人には上がることが出来ないだろう畳には雀か何かの死骸があり、骨と羽だけのそれは、まるで無機質ななにかで雀そのものの在り方を模写しようと試みた結果であるかのようだ。
硬直した炎のように存在意義を失った網戸の中では、三匹の墨のようなカナブン「飛びたかった」と言いたげな半端に開いた硬い羽。
夜毎身体から離脱するようになってもう3年になる、初めはそのうち戻ってこれなくなるのではないかと不安だったが、ひと月、ふた月と経過するうちそんな恐れはいつの間にかなくなっていた、俺という鳥に特定の名前はない、だいたいが、特別鳥に詳しい方ではなかった…俺がいま鳥の姿をしているのは、飛ぶ、というイメージに漠然と反応した結果、なのだろう、おそらくは。
広めの二間の部屋を抜けて台所に出る、何か黒い、すすのようなものが床一面に散乱している、まだ人が踏みこめるころに、誰かがいたずらをしたのかもしれない10年前にはガスだった、そんなものがばらまかれたような痕跡だった、流しに飛び移ると流しの中でラジカセのようなものを燃やした形跡があった、かなり執拗に燃やしたのだろう、灰の内側をよくよく眺めて、カセットテープのリール部分を見つけることが出来なければ、誰もそれをラジカセだとは気がつかない、俺は軽く羽ばたいてみた、長い間の堆積で湿気を相当に吸ってしまったのか、毒々しいその塊は少しも挫けることはなかった。
おかしな話だが、自分が昔住んでいた家のことを思い出した、越した後に一度だけ訪ねて行って、無人だった家屋に潜り込んで数時間遊んでいたことがあったのだ、小学生のころだったか…あれは不思議な体験だった、家族があり、家具が置いてあったそのころより、全てが行ってしまったその家の方が、どこか親密な匂いがした、面倒な虚飾なしに語り合う言葉のような親密さが、一階、両親が住んでいた居間、廊下、台所、階段、二階の部屋…あの時初めてその家に触れた気がした、その時初めてその家と深く通じあった気がしたのだ、潜り込んでよかったと思った、俺は間違いなくあの数時間、あの家の中で暮らしていたのだ。
肉体を離れて彷徨っていると、同じように肉体を離れて彷徨っている者たちに出会うことがある、「亡霊」なんて名前で呼ばれるやつだ、彼らは俺の状態に非常な興味を持って近づいてくる、よくテレビの心霊レポートものなので、「大変に意思の疎通が困難な霊です」なんて場面を見ることがあるが、こちらが肉体を離れていればどんなやつだろうとそこそこの話は出来る、基本的な情報は携帯電話の赤外線通信のように相互に送信、受信されるような感覚がある、さて…台所から玄関の脇のトイレや浴室のスペースに入って行ったら、青年だろうか「生きてるのか?」と彼は言った「そのようだ」と俺は答えた、俺のような存在は面白がられるのか、どんな厄介そうな連中にも簡単に受け入れられる、おそらく俺が人の形をしていないことに大きな原因があるのだろう、少なくとも外面上俺は鳥であるから、その裏にどのようなものを感じても彼らが生に対して抱いている一種の生理的嫌悪のようなものはあまり表れないで済むのだろう。
「自殺したんだ、もう40年は前になるかな」とそいつは言った、上がれないのかと俺は尋ねた、「たぶん上がりたくないんだね」「どうして」「だってそしたらきっと輪廻しなくちゃならないだろう、せっかく死んだのにまた生まれてこなくちゃいけないなんて馬鹿げてると思わないか?」判らなくもない、と俺は答えた、そして、そこを離れた、「ここは面白いよ、とても」玄関に開いた大穴から俺は外に出た、あいつは多分悪霊なんて呼ばれる類のものだろう、「ここは面白いよ」という言葉に興味はあったが、時刻はもう夜明けに近くなっていた―確信はないが、きっと夜が明けるまでフラフラしていたら死んでしまうのではないかという気持ちがずっとあった…俺は翼を広げ、一気に上昇すると、さっき俺が居た部屋のひとつ下の階から気をつけのまま背骨をなくしてしまったみたいな女がひとり、神粘土のような表情でこちらを見上げていた、なるほどね、と俺は思った。
明日からしばらくは退屈しなくて済みそうだ。
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