不定形な文字が空を這う路地裏

長い長い死のためにしてやれることなんてあまり無い










浅はかな空気にどっぷりと浸かって
騙されたようにその気になって
82階の硬質ガラスに阻まれた窓から
12階のテラス・カフェの屋根の透けないところで
汚れた生命を垂れ流す犬のことを双眼鏡でずっと見ていた


その犬は見たところシェトランドシープドッグで
生きていたころには少し肥満気味だったのじゃないかという風に見受けられた
これと言って確信は無いのだが
雨に濡れたビニール袋のように骨格に張り付いた上皮を見ているうちにそう思った
最初に肉眼で見つけたときは捨てられたモップだと思った
このビルの中腹を照らすライト・アップのシステムがひとつイカレていて
なにかに耐え切れず閉じた眼のようにそこだけぽっかりと暗闇だった


おかげで
昨夜には反射で見えなかった部分が見えたのだ


この建物は限られた人間しか入ることが出来ない
そこらをうろついている犬などもってのほかだ
そしてごく一部の例外を除いてペットの持込は禁止されている
そこを許していると大変なことになる―なにしろ、このビルの70階から90階まではホテルルームになっているからだ
犬の位置から察するに
この窓のあるラインから投げ落とされたのかもしれない
だとしたら30階より下―そこより上の窓は開かないようになっているから


俺は小さな書き物机の引き出しを開けて
このビルの総合案内を取り出した
30階から25階まではありとあらゆる種類のレストランが詰め込まれている―チャイニーズが犬を食うというのは本当だろうか?
あいつは中華屋のどこかから投げ捨てられたのか?
昨日の昼間、いくつかの中華屋の前を通ったが
犬を出している店はひとつもなかったような気がする
24階は様々なクリニックが
23、22、21はオフィスルームがひしめき合っていて
様々な言葉で会議がなされている
20階は整備室で、客の出入りは禁止されている
10階までまたオフィス
弁護士から商社まで、金になる仕事がわんさか詰め込まれている
その下はブランド物を大量に扱う店が入っている―おおむね招待制で、ビルの入口でチケットを提示しなければ入ることは出来ない


つまり、金持ちのためのビルと言うわけ


俺は海外からブランド物を沢山買い付けに来た客という割り当てで
このビルの警備システムを余さず調べ上げるために宿泊している
俺がしくじればこの計画はまったくオジャンになってしまう
逆に言えば
俺さえきちんとした仕事をすればほぼ間違いなく
経費の倍はゆうに超える稼ぎが見込める
俺はパンフレットを閉じた
日本製の携帯電話で仲間に電話を入れる、少し調整しなければいけないかもしれない
「判った、引き続きよろしく」とヤツは言った


あの犬は誰にも気づかれないでずっとあそこで死に続けているのだろうか―?
レストランの窓からあれを見つけたものは居ないのだろうか
それともそこからは見えないところなのか
俺はちょっとした細工で割り出した防犯カメラの位置を地図に記しながら
いったいあの犬を捨てたのはじゃあ誰なんだという考えに戻った
ごく一部の例外―このビルのオーナーならペットを持ち込む事が出来るだろう
彼は動物を動物とは思っていなくて―つまり四足に欲情するってことだ
結婚もせずに様々な犬や猫と種別を超えた愛を囁き合っている
と、いう噂だ


もっとも、ほぼそれは事実と言っていい
俺達も始め彼の性癖を利用して潜り込もうかというプランを立てたが
不確実要素が多過ぎたためその案は没にした
つまり
ヤツの好みのタイプを調べ上げることが出来なかった―相当な戒厳令が布かれていることは嫌と言うほど判った
俺はこのビルの死角を見つけ出すために眉を寄せながら
脳味噌の余分なスペースで妙な想像をしていた


ある日、オーナーがこのビルに顔を出すと―飼犬が本能に従って正しい交尾をしていた
盛りの季節ならありえないことじゃ無いだろう
もしも
ヤツがそれを浮気だと捕らえたなら―自分の一番贔屓にしている犬から雄犬を引っぺがし―果たして彼に雄犬を使う趣味はあるだろうか?―自分だけが持っている鍵で窓のロックを外し―


オーナーの部屋は最上階
99階のワンフロアーだ
もしも
この階の真上辺りに窓がひとつあったとしたら―?


俺は地図をたたみ、アタッシュケースにしまって鍵を掛けた
今夜は計画を練るには向いていないらしい
調べていない場所はまだ沢山ある、死角を見つけるにはまだまだ情報が足り無いだろう―時間はたっぷりある
内線でこの時間でも開いているバーをフロントに問い合わせた
30階にふたつあるということだった


「ねえ、このビルのテラスの屋根のところになにかゴミみたいなのが落ちてるぜ?」
人の良さそうな笑顔が顔面に張り付いたバーテンダーにそう切り出してみた
「あ…そうですか」彼の繭がほんの少しピクついたような気がしたのは思い過ごしだろうか?このカウンターの後ろの窓から―テラスを見ることは出来るだろうか
「鳥でも迷い込んだんでしょうかね…」
「この辺りまで鳥が飛んでくることがあるのかい」
「ええ、いえ、滅多には無いですがね…2、3度、あったかな…」
「鳥にしちゃ大きいんじゃないかな―俺の部屋からでもぼんやりと見えるもの―そう、犬くらいはあったぜ」
犬、という言葉に彼は間違いなく反応した、施設整備のものに言っておきましょう、とかもごもごと言った挙句、お代わりはどうですか?と話を逸らした


そうだな、貰おうか

俺は
グラスを差し出した


俺だけが
あいつのために祈ってやれる人間らしい

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