不定形な文字が空を這う路地裏

カッティング・エッジ














ベジタリアンの夫は機械が刻んだ野菜を好まないのでわたしは毎日大量の野菜を刻む、薄切り、千切り、いちょう切り、短冊、ささがき、タワーマンションの最上階に住んでいながら、窓の外なんかほとんど見たことがない、風が強すぎて洗濯物なんか外には干せないし、乾燥機を使ったほうが早い―あらゆることを手っ取りばやく片付けて野菜を刻む―他人に何かを強要する主義など主義ではないと、もう何度考えたか判らない愚痴を頭の中で繰り返しながら…玄関口のインターフォンが鳴る、客ではない、管理人室からの内線だ、わたしは受話器を取る、宅配便が届いていると三十代前半の女性の管理人は冷たい声で言う、彼女は凄く行き届いた仕事をするけれど、それが出来るせいで周辺の世界のすべてを憎んでいるみたいに見える、すぐに行きますと告げて受話器を戻し、思わず舌打ちをする、そしてしまったと思う、舌打ちなんて下品なことはするべきではない、それぐらいのことはきちんと教えてくれる家庭で育ったからだ―他人の悪口を言わないとか、陰口を叩かないとかそういう(まあ似たようなことだけれど)―ひとつだけ凄く印象深い教えがあった、あれは確か社会人になる前に父に教えてもらったことだ、「他人を利用しなければならないようなプライドなんて持つな」それだけはどんなにひどい空間の中に居ても守り続けている…管理人の女性は、わたしがずっと包丁を持ったまま電話を受けていると知ったらどんな顔をするだろう?このごろわたしはそういうことが変に気にかかる、包丁を持ち続けているせいかもしれない、野菜を切りすぎているせいかもしれない、あるいはこの部屋が野菜を切り続けるには高いところにあり過ぎるせいかもしれない―見事過ぎる空調のせいかもしれないし、梁を隠したおかげで広く高く見える設計のせいかもしれない、チャンネルを変え続けなければ楽しめない衛星放送のせいかもしれないし、あるいはそんなことばかり考えているわたしのせいなのかもしれない―エプロンを外し、上着をはおって部屋の鍵を持つ…無くても開けられるのだけれどやはり鍵を持って出ないと入れなくなるような気がして不安になるのだ―わたしは少し感覚が古い人間なのかもしれない、きちんと鍵を確かめてホテルのような廊下をエレベーターまで歩く…数年前にこんなふうに管理人室へ出向いている途中で、これから屋上へと飛び降りに行く人間とすれ違ったことがある、あれは確か三階に住む家族の長女だった…わたしが乗ろうと待っていたエレベーターから降りてきたのだ、「どうしたの?」とわたしは聞いた、「ちょっと眺めのいい景色が見たくなって」と彼女は答えた、管理人室への用事が終わって降りてくるエレベーターに乗り込もうと待っていたら、巨大な土嚢が落ちたような音がしてロビーの方を見やると、ちょうど正面玄関のあたりにさっきの女の子が倒れていたのだ、上半身が真赤になっていて…大変なことだと思ったけれどわたしはやはり急いでいたから、誰かが(たとえばあの優秀な管理人の女性が)対応するだろうと思ってそのままエレベーターに乗り込んだ、ドアが閉まる瞬間、管理人の女性が正面玄関へ走っていくのが見えた、そして彼女は一瞬こっちを見た、その顔は青ざめていてさすがにうろたえているみたいだった、彼女はわたしと目が合うと自分の目を大きく見開いた、その時の顔がわたしは忘れられない…彼女はきっと、なにを差し置いても決まった量の野菜を切り続けなければならないような人生に放り込まれたことが無いのだ、わたしだってそんな人生を背負う羽目になるなんて思ったことも無かった、小さな荷物を抱えてわたしは部屋に戻った、そして荷物の中身を確認すると(以前購入した化粧品のメーカーから届いた新作のサンプルだった)、上着を脱いでエプロンをつけ、手を洗って野菜をまた刻んだ、こうしていつも同じことを同じ時間にやり続けていると、いまがいつでどこなのかということがとても曖昧になってくる、どこかの国の拷問みたいな単純作業の繰り返しだ…野菜を切りながら考える、こんな生活があとどれだけ続くのだろうか、こんなくだらない作業から逃れるすべは無いだろうか…?わたしの思考は次第に夫を殺す計画に執着し始める、もちろん本気じゃない、八つ当たりとか、お遊びとか、ストレス解消みたいなものだ―そういうことを考えていると、とにかくすっとするのだ、なにかが生き返るような感じがする…その時電話が鳴る、手を止めて出てみると警察だと言う、何度も住所と名前を確認して、警察は言う、「お宅のご主人はお亡くなりになりました」事故だと言う、信号無視の車に撥ねられたと…「間違いないのですか」わたしはかすれた声でそう聞く、間違いありません、と警察は答える、「ご遺体を引き取りに来て頂けますか?」「判りました」わたしはそう答えて電話を切る、エプロンを外し、野菜のすべてをごみ箱に捨て、キッチンを綺麗に片付ける、これまでしたこともないくらいに、綺麗に…それから服を着替え、丁寧にメイクをし、窓を開けて、ベランダを乗り越える、とても美しい街の景色……いま、行くからね。

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「詩」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事