人が時を自由に出来ぬというのならなぜ人は時の中に生まれるのだろう?考えてみろ、人が生まれる前には時なんてものはなかった、それは人が生まれなければそう名づけられることはなかったのだ、時計など目印にしか過ぎない、時は決まりなど持たない、ただ過ぎていくものだと思っていればいい…本当に名づけられるべきは時ぐらいでちょうど良かったということだ、一日の流れが規則的でないことぐらい、誰にでも理解出来ることじゃないか…?今日はなんだか一日が早い、今日はなんだか短く感じる、そういうやつだ…それで正解なのさ、時計なんか本当は無くったっていいものなんだ―なんて言っても、それを見なければならない人間の方が多いだろう、家の壁のみならず、自分の腕に、携帯の中に、確認すべき時間を所持しているものがいるだろう、自分自身が生きるために…だが忘れるな、それは本当のものじゃない、それにはたいした意味なんか無い、便宜的に必要な基準だということを決して忘れてはならない、それがすべてになってはいけない、判るだろう、それはいつかお前を殺すことになる、お前自身が知らなければならない事柄の幾つかに、目隠しをすることになる、お前は奇形的な盲目になって、しなければならないことをし続けるだけの生物になる、それが自分で選んだものだろうが、押しつけられたものだろうがだ…基準なんてものは、本来、それが無ければ生きられない連中の為に設えられたものであって、人間すべてに必要なものではない、それは例えば野生動物が秘めている本能とはまったく違うものだ、むしろ、本能とは似ても似つかないものだと言ってもいい、そんなものに闇雲に従っているとろくなことにはならないよ―俺はそういう連中を山ほど見たことがある、スカスカな中身を、硬い硬い殻で覆ってるような連中、据えるべき中心を持たずに、ありきたりなルールに従って、人生の確信を得たと勘違いしている連中―それは違うよ、それは違う…判りやすいことと、確信していることとは、似ているようでまるで違うことだ、俺は何度かそう言ってやったことがある、直接的にも間接的にも…だけどそんな連中には俺の言葉なんか届かなかった、なぜなら彼らは一番判りやすいものに従ってしまったからだ、一番判りやすいものに従うということ、それは自分で思考のプロセスを築くという行為を忘れさせてしまう、そこに書いてあることに則って動くことしか出来なくなってしまうのさ、そしてそれを美徳だと勘違いしている…おぞましいことだぜ、それは美徳なんかじゃないさ、それは腐敗しながら生きているゾンビのようなものだぜ…時はあるが時間は無い、そうしたことを感覚的に理解出来なくては駄目だ、タイムスケジュールは人間を動かすためのものではない、それを疑問に思わない動物を動かすためのシステムなんだ、目を閉じろ、目を硬く閉じろ、いま自分が見ているものを本当に知るために、ぼんやりと開いただけの目ではこれまでと同じものしか見ることは出来ない、目を硬く閉じて、めいっぱい見開け、そうするだけでもほんの少し違う世界を見ることは出来る…イズムに安住してはいけない、表面的なイズムは足枷にしかならない、成すべきことを成さずに御託ばかり並べ立ててる連中がいるだろう、ほら、大勢…判るだろう、表面的なイズムは足枷にしかならない…自分がきちんとこの世界に根を張るためになにが必要なのか、誰にも教えてもらっていない自分で知らなければならない、誰にも強要されていない自分で見極めなければならない、それでこそ人生は先へ進むのだ、たとえどんなに後退しているように見えようともだ―他の誰かと同じ目線で物事を眺めることなど決して出来っこない、お前が見ている景色はお前にしか見えないものだ、お前がどんな目をしていようがそんなことは知ったこっちゃない…限界を持たない自分でなければならない!判るか、限界なんてものは、他のどこかを気にするからこそ生じるものだ、お前には限界など無い、現に今も生きて、この文字を追っているだろう、お前が生きることにお前の限界などない…もちろん肉体にはそれは設けられているけれども…どうして書き始めた・なにを語ろうとした?最初の一文字をタイプしたとき、それは他のどこにも無いものだったはずだ、どうして誰かに習ってしまった?他の誰かの言うことなど聞いてしまった?そんなものはまるで必要ないものだ、捨ててしまえ、すでに答えられた解答にはなんの意味もないことを知ることだ、まだ明かされてない問、まだ晴れてない闇、そうしてお前がお前であるための未知、すべて果てしなく転がっている、怖がらなければどこまでだって追いかけて行けるのさ…。
最近の「詩」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事