地面に伏した死体は若い女のようだった。なぜそうなったのか、もう判断もつかないほどに腐敗しきっていて、鮮やかな配色だっただろう衣服ももう、全身から溢れ出した体液に塗れて汚物のような色味に変わっていた。以前、レストランの厨房で働いていた時、鼠の死体を処理した午後のことを思い出した。まだしっかりと形を残していたそれは、自分の手の中で砂のように崩れて薄汚れた毛の塊になった。あの時俺の中でいくつかの生が、鼠の死に持っていかれたのだ。人は死を前にした時、無意識に共に逝こうとするのだろうか?古い記憶だった、今更思い出す必要も特にないような―けれどあの、冷蔵庫の裏で眠っていた鼠が語った死は、後に死んだ父親の死よりもずっと、俺の心中に死というものを克明に植え付けていたのだ。だからきっと、忘れてはいなかったのだろう。あの鼠は、ずっと俺の中で砂に変わり続けているのだ。俺は女の側に腰を下ろした。死んだものが好きだった。ネットで強烈な事故の映像を漁り、廃墟に潜り、廃道を歩いた。いや、動画配信者ではない。あくまで自分がそれを見たいだけなのだ。今日もそうした趣味の一日だった。航空写真で見つけた山中の廃墟らしい建物を見つけ、監視カメラを避けながら潜り込んだ。死臭のようなものは感じなかった。女は一階の、壁の無い柱のみの駐車場に横たわっていて、絶えず風に吹かれているせいかもしれなかった。臭わない死体というのはたまにある。液という液を出し尽くしてしまえば、死体は臭わなくなるのかもしれない。あと二ヶ月もあれば、この女も綺麗に骨だけになってしまっていたのではないだろうか。「やあ」と俺はナンパでもするように話しかけた。「どうしてこんなところに来たんだ」返事は無かった。当り前だ。でもそれが気楽だった。見知らぬ人間との会話が嫌いだった。だから見知った人間というものが居なかった。仕事場、近所―見知らぬ人間だけがウロウロしていた。でも、それが一番居心地が良かった。「死体になってどれくらい?」と俺は訊いてみた。死んでどれくらいというのは、素人には判断がつかないものだ。もっとも、そんなものの玄人になることが人生に何をもたらすというのだろうか?それは多分、誰よりも死について詳しくなるということだろう。いつしか俺は、自己紹介を始め、自分の人生を果てしなく語り始めた。そうして死体の前で自分の人生を解体していくというのは楽しい行為だった。体内でデフラグが行われているような感覚だった。数時間は語っただろうか。喉に渇きを覚え、失礼、とことわって、バッグに入れておいた水を飲んだ。それから急に眠くなって、深い眠りに落ちた。夢の中で、俺は死体である女の人生の中に居た。それは何もない人生だった。アイスクリームやスナック菓子、カラオケやネイルのことばかりの毎日だった。明日はなにをして遊ぼう、そんな言葉ばかりが繰り返されていた。そこに居ない友達や教師の悪口、取るに足らないヒットソング…そんな楽しさが拷問のように繰り返された。そして、社会に出てもそれは続いた。でも、心から楽しむことは出来なくなっていた。仕事は学校よりずっと難しかったし、様々な年代の様々な人間の機嫌を窺いながら動かなければならなかった。学校を出れば自由になれると思っていた。でも、それは淡い夢だったのだ。守られた檻の中での自由。動物園の動物たちと同じ自由。でも、そのことがわからなかった。わかったところで、どうすることも出来なかった。夢のような時間が永遠に続くと思っていた。そのうちに眠れなくなった。医者に通い、薬の力で眠り始めた。でも眠れたのは最初のひと月だけだった。遊ぶ金の為ではなく、病院に通うための金をもらうために仕事は続けなけれなならなかった。そのうちに眠れない寝床に耐えられなくなり、深夜の街を彷徨うようになった。それは次第に範囲を広げ、山に入り込んだ。この廃墟の中に足を踏み入れたときに、何かが自分の中で切れた。細い糸が切れるみたいな微かな感覚だった。ああ、もうここでいいや。そのまま地面に倒れ、目を閉じた。生まれて初めての、そして最後の深い深い眠り。その瞬間はなんだかとても幸せだった気がする。「馬鹿だったんだな」目を覚まして俺はそう言った。「だけど、辛かったろうな」俺は彼女の頭をよしよしと撫でた。さぁーっと形が崩れ、髪の毛や頭皮、筋肉だったものが風に流された。何も知らなかったままの頭蓋骨がどこか滑稽な様子で露わになった。「まあでも、ずっと楽しかっただけよりは良かったんじゃないか」何か中途半端な気がして、そのまま全身を順番に撫でてやった。ふふふ、という笑い声が聞こえた気がした。廃墟を後にした時、駐車場以外を覗いてないことに気付いた。でも、引き返す気にもならなかった。あの子はもう少し眠りたいだろうから。