漏電を思わせる低気圧の真夜中には生焼けの肉の臭いがする、一息に喉の奥に流し込んだハーパーのせいで身体はまるで蒸気オーブンのトレイの中でぶすぶすと少しずつ焦げ続けているみたいだ、ベルベッド・アンダーグラウンドが流れている、アコースティックギターを転がしているみたいなストローク、ライティングは前時代の炭鉱夫たちが下げているカンテラみたいな調子で、それはあらゆる物事を絶妙に錯覚させる、幸せはまるでもっと幸せであるかのように、不幸せはまるでそんなたいしたことじゃないなんて具合に…現実のチャンネルを簡単に変えるなよ、見てくれが違ったところで手触りが変わるわけじゃないんだ―まぶたは微弱な電流が流れてでもいるかのように時々痙攣する、右の時もあるし左の時もある、なにか判らないことが起こっているんだ、と感じる、そしてそれは、肉体における不可思議な出来事のほんの欠片でしかないのだと―なにを知っているのだというのだ?俺がこの身体について知っていることは、浴室で洗うことが出来る部分以上にはない、グラスには知らない間に同じものが注がれている、俺はそれを果たして注文したのだろうか?注文した記憶はない、少なくとも、かわりをくれと口に出した覚えはない、けれどもしかしたら、バーテンの顔を見ながらグラスを指さすようなことはしたかもしれない、でもはっきりとそうしたとは言えないし、いまがいったい何杯目なのかも覚えていない…目的のない夜にルー・リードの声なんて聴くもんじゃない、そうは思わないか?腹の裂けた犬が内臓を垂れ流しながら歩いているのを、ビデオカメラを構えてずっと撮り続けているみたいな、そんな気分になる、でもだからってどんなものをリクエストすればいい?俺にはそんな時に適当な音楽があるようには思えなかった、いっそのことマイケル・ボルトンでも流しておけばいい―少なくともそこになにか気になることがあるとは思えないから―真夜中に薄暗い店の中でそんなことを考えていると、時間がここから動いていないような気分に陥る、自分のこれまでの人生は、ここに腰かけてぼんやりとしている間に見ていた夢のようなものだったのではないかなんて―そんなふうに考えるのはまだこの世界になにかを期待しているのかもしれない、そしてそれは俺のなにがしかの努力とか、そんなものとはまるで関係のない期待に違いない、ふふふ、と俺は表情を失くしたまま笑う、隣に座っていた希望通りに生まれることが出来たジョーゼットみたいな女が、ボガートの時代の映画みたいな調子で笑いかけてくる、何か楽しいことでもあったのか、と…「なにも楽しいことなんかない、そんな時の方が笑っちゃう―そういうのって判る?」と俺は聞いてみた、女は唇をナメクジに変えようと目論んでいるかのように尖らせて考えた、「判らなくはないけどね」「そういうの黙ってた方がカッコいいと思うわ」俺は苦笑した、「聞かれたから答えたんだ」女も笑った―それきり俺たちはなんの言葉も交わさなかった、気が合わないわけではなかった、そのまま話続ければ、すこし楽しくなることだって出来たかもしれない、でも俺たちはそれを望まなかった、たぶん女も知っていたのだ、チャンネルを変えても手触りは変らないってことに…女は食器用洗剤みたいな色のカクテルを二杯飲んですぐに帰った、じゃあね、と言って軽く手を振ってから―もしかしたら本当にジョーゼットだったのかもしれなかった、こんな店で見るにはあまりにポエティックな仕草だったから…何杯目かを空にしてカウンターに両肘をついた、いつからここに居るのか思い出せなかった、でもきっと数時間のことに違いない、すぐに這い登れる落とし穴に落ちてぐずぐずしているような、そんな感じがした、あの女がまだ隣に座っていたなら、もしかした俺はそれについて話したかもしれない、そしたらあの女は俺がどんなふうに楽しくなかったのか、もう少し理解することが出来たかもしれない、そうしたらもしかしたら、正々堂々と着用されたバタフライ・パンツを目にすることも出来たかもしれない、でも俺の隣にはもう誰も座っては居なかったし、俺のグラスにはもうどんなものも注がれなかった、ルー・リードは相変わらず白い白いと歌い続けていたし、小さな窓の外には雨粒が蛙みたいに飛びついているのが見えた、俺は笑おうと思った、でもほんの少し前自分がどんなふうに笑ったのか、どうしても思い出すことが出来なかった。
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