そんなに長い間じゃなかった、あの街角でいつやってくるのかも判らないバスを待っていたのは
日が落ち始めるころの風はとても寒くてコートの前をいっぱいまで閉じたけれど少しも役にたちはしなかったよ、寒さだけはどうにもならないもんだね
遊びすぎた子供たちが嬌声を上げながらいい匂いのするパン屋の角を曲がって、自転車を転がした母親と首尾よく出会う
そんな光景を石のようにただ見ていた、時間はただ過ぎて行くばかりで、自分がこのまま終わった催しの広告になってしまいそうな、そんな気分でバスが来るまで街角を眺めていたんだ
バス停の正面の小さな教会には大きな救いを求めに来る人が何人かいて、みな一様に泣きながら入っては涙を止めて出て行った、バスの時刻表はずいぶん前に壊れたままになっていて―後どれだけ待っていればそこから出て行けるのか一向に見当がつかなかった
道を行く人たちは名前を知らない人間には話しかけない、今ではどんな街に行ってもそうなのさ、誰もが手を取り合えた時代にはもう戻れないんだ
警笛を鳴らしながら現代の荒くれものたちが歩行者を脅かしてゆく、不思議なことにどんな街にいてもそういうやつらの操る車からはガンズ・アンド・ローゼスが聞こえる、ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングル、ウェルカム・トゥ・ザ・ジャングルって舗装された道の上で何を叫んでいるんだろう
小奇麗だけれど芸のない車はみんな日本車
人種差別的概念があんまり役にたたなくなってきた位の夜になってようやくその日最後のバスはやってきた、明るいうちにはこの街を出られるはずですよって、夕べのホテルのフロントの女の子は言っていたけど―あらゆる宿の従業員があらゆるバスの時間を知っているわけじゃないってことだ「お待たせしたね」運転手の英語には南部の訛がある「問題ないよ」答えて乗り込んだら中にはプラチナ・ブロンドのうら若いレディーが一人、彼女がハイと言ったので俺もハイと言った
俺は少し間を空けて席に着いたけれど彼女は退屈していたらしくじきに俺に声をかけた、「ねえ、かまわなかったらこっちに来てほしいんだけど」俺は正直に言って大分眠気をこらえていたけれど、断る気にもなれなくて彼女のそばに腰をかけた「旅行してるの?」「まあ、そうだね」「どうしてこんな何もないところに?」「何もないところが好きなもんで」「それで、満足する?」「まあね―何もないところに行かないでいるよりはね」「いつもそんな喋り方するの?」「誰かに話しかけられたときは」おもしろーい、と彼女は笑った、俺はお愛想笑いをした「それで、君はどこに行くところ?」
彼女は二、三度髪を揺らせて思わせぶりに微笑んだ「このバスの終点までよ」「里帰り?」「そんなところ」「正確にはそうではない?」「正確にはね―でもそれはプライベートにかかわることだから」「これは失礼」俺は深々と頭を下げる、彼女はバスのエンジンをかき消すほどに大きな声で笑う―ひとしきり笑い終えると口をつぐむがまだ微笑みは残っている
ありきたりのことを話してしまうとだいたい沈黙は訪れるもので―俺たちはぽつぽつと会話しながらそれぞれの窓の外を見ていた「母を―殺しに行くの」半時間ほど経ったところで彼女が不意につぶやく「なあ―聞き間違えたかな?」「間違えてないわよ」彼女はおいしいワインの話をしているように微笑んで言う―諭すように、ゆっくりと、単語を区切って「母、を、殺しに、行くのよ」俺は唾を飲み込む「映画の撮影かなんか?」「だったらいいのにな、って思う」俺は難しい顔をして彼女の目を覗き込む「なぜ?」
なぜ、ね、と彼女は耳の上を軽く掻いて「なぜだろうね―彼女があたしの父親を殺したからね」なんて言うか、復讐?そう言って真顔を作って見せる「それは、直接的に?それとも―間接的に?」「どっちの話?あたし?それとも母親?」「今は母親」「直接的に―とても直接的に」その言葉の瞬間、彼女の目は少しギラついた、ふぅむ―と、俺は唸った
「そういう話を聞いたとき、人はなんて言うか知ってる?」うーん?「やめたほうがいい、とか言うの?」「たぶん」「たぶん?」「―よければ、詳しい話を聞かせてくれる?」
彼女の母親は精神を病んで、幼い彼女の目の前で父親を刺殺し、彼女をもその手にかけようとした―騒ぎを聞きつけた隣人にすんでのところで助けられ、保護されたそうだ―施設にいたのよ、私、施設にいたの―呪文のように何度か彼女は繰り返した―はっきりそうとは言わなかったけれどたぶん脱走なのだろうなと俺は考えた「正しいとか正しくないじゃなくて」彼女はあまり表情を変えずに話した「どうしてもそうせずにはいられないのよ―母親から手紙が来たの、彼女は刑務所じゃなくて病院に入って―元気になってこの前退院したのよ―いつかあなたに逢って謝りたい、そんな手紙を寄こしてきた―だから、どうしても殺してしまいたいの」俺にそれを止めることが出来るだろうか?と俺は質問してみた、そうするとあなたは旅を止めて私をずっと見張らなくてはならないわ、と彼女は俺の目を覗き込んだ―俺は考えた―この話は俺が旅を止める理由になるだろうか―?しばらく見つめあった後彼女はまた笑った
「嘘」「…何だって?」「嘘だから、気にしないで」俺はぽかんとした「少し悪趣味じゃないか?」ごめんなさい、と彼女は詫びた「旅人に嘘をつくのが趣味で」それから俺たちはそれぞれにうたた寝をした、目覚めるころに俺の目的の街についた、挨拶をして降りるときに彼女がごめんねと言った
そんなに長い間じゃなかった、あの街角でいつやってくるのかも判らないバスを待っていたのは―今となっては落度のように思い出す、あの後彼女について行ってたら―こんな新聞記事を見ることはなかったのかもしれないなんて―今日も見知らぬ街角でいつ来るのか判らないバスを待っている、そうしていると
いつかまたあの娘と乗り合わせるんじゃないかって―そんな気になってくるんだ
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