放置された骨組みだけの車のそばには細やかな花が咲いていた、二十年も前にそこで中年夫婦の心中があったのだと聞いたのはつい最近のことだった、シートが二つしかない、クラシックカーのようなシルエット、車種を特定するにはダメージが深過ぎた、車ごとガソリンまみれにして火をつけたらしい、市街地からほど近い山の、国道から少し離れた山頂へと向かう道、その脇に車は長いこと放置されているらしい、俺は散歩のついでにそいつを見物に来て、いまこうして見下ろしている、馬鹿みたいに暑い日で、立っているだけで蒸し焼きになりそうだった、スポーツドリンクを飲みながら上り続けた俺は一休みがしたかったが、さすがにクッションを失くした焼け焦げたシートの上でそれをする気にはならなかった、眺めるのに飽きると国道へと戻り、上ってきた道を下りるか、それとも緩やかな上り坂をさらに進むか決めなければならなかった、その先へと歩いてみることに決めた、梅雨明けもまだしていないのに太陽は内臓に響くほど噛みついてくる、それでも歩くことをやめようという気になれないのは、時折吹く突風の心地好さと、歩きながら眺める景色の美しさのせいだった、どうせ汗はかくし、何もしなくても疲れるのだから、何か面白いことをして一日を過ごしたかった、ただそれだけの理由だった、ふと振り返ると、さっきの車のそばに老いた男女が立っているのが見えた、見間違いかもしれないし、俺と同じように散歩をするのが好きな年寄夫婦かもしれない、でも彼らには不思議なほど生きてる人間の感じがしなかった、それは断言出来る、でも、そんな印象がどんな真実を導き出すのか、そんなことにはまるで興味がない、俺に煩わしい思いをさせないのなら、幽霊だろうとなんだろうとその辺をうろうろしてもらってかまわない、三百メートルのトンネルを狭い歩道に毒づきながら抜けると国道わきの山肌を上っていく荒れ果てた石組みの階段が見えた、そういえばここには山頂に展望広場があるという話を聞いたことがあった、けれどこの階段はなにか、そこへいくものとは違うように思えた、単純に俺は、そこの展望広場には行ったことがあったのだ、その時の階段はここにあるものとはまるで違う場所にあった、もしここから展望広場に行くとすれば、かなりの回り道になるだろうという見当はついたのだ、ではこの階段はいったいなんだ?俺は上ってみることにした、上るうちにあることに気が付いた、視界に入るうちはなにも見えないが、通り過ぎる瞬間、ぎりぎり目の端に止まるあたりで何かが見える、俺は立ち止まってみた、顔をそちらに向けると消えてしまうのだが、顔を動かさずに目玉だけを動かしてみるとちゃんと確認出来た、そいつは木にぶらさがった首吊り死体だった、しかし、驚いてつい顔を向けてみるとやはりそこにはなにもなかった、ということはこれは残像のようなものだ、この階段のどこかでそういうことがあったのかもしれない、でもそのアプローチはあまりに控えめ過ぎて、おそらくこちらにたいしてなにか欲求があるとか、そういうことではないのだろうと解釈した、その後もそれは何度か同じ側に現れたが、特別それ以上なにかしてくるかというわけでもなく、俺はいつしかそいつを枝とか葉っぱと同じようなものだと認識するようになった、階段を上がりきるとそこから少し下りの道になった、下った先は直角のカーブになっていて、そこを曲がると小さな灯台があった、灯台の上部には塔をぐるりと囲む形でバルコニーが設置されており、落下防止の鉄柵が張り巡らされていた、その鉄柵から等間隔で首吊り死体がぶら下がっていて、悍ましいメリーゴーランドのように見えた、灯台が今でもその役割を担っているのかどうか、まだ明るい今では知る由もなかった、周囲の草がきちんと刈られているので、もしかしたら現役の灯台なのかもしれない、風も吹いていないのに首吊り死体はゆらゆら揺れていた、そこにはどんな感情もなかった、本当にただ、そういうふうになっているからというようにゆらゆらと揺れていた、揺れている死体の性別、年齢は様々だった、ただ、子供は居なかった、(ここにまとめられているのかもしれない)と俺は思った、過去にこの山で、命を絶った連中がここにまとめられているのだ、それはいつまで経ってもただ前後に揺れているだけで、それ以上どんなことも起こらなかった、彼らは皆、自分がどうして死んだのかさえもう覚えていないみたいに見えた、俺は山を降りて街に潜り込み、喫茶店に入ってアイスコーヒーを飲もうと思った、最初に目が合ったウエイトレスは、俺を見て小さな悲鳴を上げた、それからすぐ、すみませんと言って、俺が座るのを待って水とメニューを持って来た、何か見えた?と俺は世間話のように訊いてみた、ウエイトレスは困ったように笑い、それから、こう言った
「あなたの肩から沢山の人がぶら下がっている」