空家になった邸宅の庭の木の枝が飛び出して陰を作る路地裏
君が駆け出す前に言った言葉は聞こえなかったけれど
それはたぶんひとつの名詞だった僕達が
明日からはもうふたつになって、そして
二度とひとつにはならないってことを告げたのだろう
九月の終わりの風を初めて冷たいと感じた今日
君は木漏れ日の向こうで他人の街に溶けた
僕は後ろから伸ばされた静止の腕のような枝の影に
こころを逃がしたままで立ち尽くしていた
まるで幾重もの檻だった、幾重もの檻になって
おまえはそこから先へ進むことは決してないのだと
僕を、それとも僕自身が
そこを永遠の断絶に塗り替えた
君が溶けてしまった他人の街、僕は腕ひとつ伸ばす事もせず
きびすを返して
さっきまでふたりだった
週末の繁華街をひとりで歩いた
何気なく覗いたショーウィンドウが
あれほど眩しかったのは気のせいではないのだ
僕は薬を入れるカプセルで外界と遮断されたようで
喧騒はキャンセルされて
奇妙なまでに静かな世界
この場所に溢れるとりとめもない音楽を
鮮やかに鼓膜に届けていたのはいったいなんだったのか
明日になるまでそんな疑問に答えは出したくなかった、たぶん、明日になってもまた
それは突然に訪れる
それは突然に訪れる
カプセルの中に放り込まれて、スニーカーの底だって心なしか心許無い
さっき動けなかった影の上、すらりと伸びていた枝の先に
僕のこころがはやにえのようにディスプレイされているのかもしれない、こころはたぶんそこにある、こころはたぶん…だけど僕はそれを取りには行かない、それはもう少し時間が経ってからにしたい
それで腐敗してしまうならそれはそれで構わない、いまはどうせ要らないものなのだから
オブラートを突き抜けてきたクラクション、僕は赤信号に飛び出していた―太った中年が車から降りてきて文句を言う、「殺すぞ」とふざけて言ったら
何事かぼそぼそと口にして走り去った、笑う気もしない
何かをする気なんてひとつも見つけられない自分に気づいた、昨日までの長い距離は
きっとコールドスリープの中で見てた夢だ
壊れたかに思えた信号が青に変わったとき、僕は猛然とスタートダッシュした
誰かの肩を弾き、捨てられた空缶を蹴り、先を急ぐ自転車の通路を塞ぎながら、僕はどこへ行くのかも判らないで走った、そんな風に走るのは高校生のころ以来で
すぐに息が苦しくなる、すぐに筋肉が上手く伸縮出来なくて―太すぎる刃物を刺しこまれたみたいに横腹は痛んだ、足がもつれ―それでも僕は止めようとはしなかった、止められなかった、やがては津波のように押し寄せてくるだろう感情に気づく前にどこかへ逃げなければならなかった、小さな信号はすべて無視し、電動車椅子の老婆を飛び越え…我が物顔で歩道ではしゃぐ子供を巻き込んで転んだりしながら走った、空は紅く変わり始めたかと思ったらすぐに落ちて―人工的な明るさだけが僕の馬鹿を変わらず移し続けた、どうして走っているのだろう、顔をしかめなければ呼吸ひとつすることが出来なかった、僕はもう風に弄ばれるコンビニのレジ袋みたいにうろうろと乱れながら―駅前通りで胸が握り締められる感覚を覚えて倒れた
吐気がして―吐きたかったけれど気が遠くなって―幾人か親切な人たちが声をかけてくれたけれど、答える事も出来ず、僕は目を裏返した
君が駆け出す前に言った言葉をそのとき初めて聞いていたことに気づいたのだ、君は確かに僕の思った通りの言葉を口にしていた、そして僕は確かにそれを間違いなく受け止めていたのだ、記憶のフォルダに放り込むタイミングが速すぎた
優しい人たちの中に君がいればと思ったけれど
君はこんな僕を指差して笑うだろう
僕はそんなピエロを演じたくはなかったから
これで、よかったのだ
これでよかった
君は他人の街に溶け、僕は駅前通で
馬鹿になった自分を笑いながら溶け…
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