長く呪うような雨が好きだ、長く呪うような雨が降り続けば、それよりもずっと怖ろしいおれの心中はどこかに隠れていることが出来る。心情的な濡れ鼠と化しながら、おれはだらだらと夜の行く先を見ている。どんな今がここにあるわけでもなく、どんな明日が控えているわけでもない。ただただ降り積もっていくのは過去ばかりで、それが重い布団みたいに肩口のあたりにどっしりとのしかかっている。生きるというのはそういうことだ。今について、明日について、戯言を並べることは出来る、だけどそれが本当だと証明することは絶対に出来はしない。今や明日を語ることは、いちばんみっともない嘘をつくこととたいして変わりはない。長く呪うような雨が好きだ。
明日が欲しいか?明日が欲しいかとときどき問われる。内なる敵、というやつにだ。理由はそろそろぼやけてきただろう。現実はしっかりとおまえの首筋に喰らいついているだろう。明日が欲しいか?おまえ、明日が欲しいか?いらない。そんなものはいらないとおれは答える。明日なんてもうとっくに欲しいなんて思っていない。おれはおれという過去を背負って、おれのやるべきことをやるだけだ。台風の音がする。遠いところに台風がいるのだ。長く呪うような雨が好きだ。
蒸し暑く、まとわりつくような汗が滲み出る。小さなボリュームで音楽が流れ続け、携帯の電源は入れたままになっている。胡坐を書いて、自分が打ち込んでいるものをぼんやりと目で追っている。これはおれの告白ではない。だからもちろんおれの心情でもない。現状でもあるはずがない。これはただの暇つぶしのようなものだ。なにかを書かなければいけないと思うとき、おれはこうしたことを気が済むまで書き綴るのだ、そういう感じって判るだろ?本当はこんなものに心なんか存在しちゃいけないんだ。書き綴られるものには絶対に本当のことなんか語ることは出来ないからさ。おれたちはただ、近づこうとするだけだ、自分が大切だと信じているものに。こんな夜に相変わらず自分を生かそうとしているものに。長く呪うような雨が好きだ。
おれが今住んでいるところは繁華街が近くて、夜は平日だろうが週末だろうが必ずタガを外した連中が何事かを叫びながら通り過ぎてゆく。それがおれには蝉の声のようなものに聞こえる、いや、それはたぶんきっと同じようなものなんだ。みんみんみん、じーじーじー、つくつくぼーし。そういやあっというまにツクツクボーシの声を聞かなくなったな。居なくなるんだよ、鳴くだけ鳴いたら、居なくなるんだ。シンプル極まりないじゃないか。詩人なんか年がら年中鳴きまくってて、それでも少しずつしか死んでかないっていうのにさ。だらだらと生き残って、だらだらと綴っているっていうのにさ。だけどしゃあねえ。それは構造っていうもんだからな。いまさら、若くして死ぬことを美しいと思ってる連中も少ないだろう。それはさ、良くも悪くも世界がスピードを持っていた時代のお伽噺だよ。本当のお伽噺が、この世界には昔いくつかあったんだ、だけどそれらはみんな魔法がとけて居なくなってしまった。いまじゃ真面目で貧乏性な連中が団地の風呂場で首を括ってるばかりさ。長く呪うような雨が好きだ。
なぜ死にたい、なぜ生きたい。なぜ書きたい。なぜ歌いたい。そんなことを自問自答することが、面白いのか?おれにはもうそんなものは必要ないんだ。遠い記憶の中の音楽のようにどこかに引っかかって居ればそれでいいんだ。理由なんて行動と本当はそんなに関係がないものだ。おれは理由を必要としない。おれは生を必要としない。おれは死を必要としない。おれは詩を必要としない。もうそんなことと関係のないことをやっているんだ、おれは関係を必要としない。誘われれば従うだけだ。阿呆のようについてゆくだけだ。光に誘われる虫みたいにさ。昨日も、今日も、明日も、実のところもうそんなに必要ない。ただ一個のこのおれの生を生きるだけなのさ。喜怒哀楽、もうそんなものも必要としない、それは心というひとことで言い表すだけでいい。おれの書いてること、ぜんぶ嘘だぜ。こんなもの全部ただの暇つぶしだ。だってそうだろう、こんなものおれ自身にすらどんなことももたらしはしない。長く呪うような雨が好きだ。
おれは少しのあいだテレビをつけて天気予報を見る。なんだかんだで晴れのマークがありゃあそれはそれで嬉しいってもんだ。長く呪うような雨が好きだ。
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