鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

上田長尾顕吉の動向

2021-08-14 18:43:42 | 長尾氏
上田長尾顕吉は延徳から享禄にかけて活動した上田長尾氏当主の一人である。

今回は、顕吉に関するいくつかの課題をそれぞれ検討し、彼の存在形態の把握に努め、その動向を確認していきたい。

まず、長尾顕吉が上杉謙信の母の父、すなわち謙信の母方の祖父であるとの説については誤伝であり、実際には栖吉長尾房景であったことは以前の記事で紹介したのでここでは割愛する。

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また、顕吉は実名「顕景」と「顕吉」の二つを名乗った。名乗った時期などは後述するが、全般に顕吉で通す。


1>出自と家督相続
出自は『越後長尾殿之次第』(以下『長尾次第』)に、上田長尾氏の三代目当主長尾兵庫助(実名不明)の次男と伝わる。

二代目当主房景死後まもなく三代目兵庫助が早逝してしまい、幼年の遺児が成長するまでの間は一族と見られる長尾清景が当主として活動したと推測される。また、兵庫助嫡子の兵庫助憲長は家督を相続する前に死去してしまい、次男の顕吉が家督を相続することになった。これらは上田長尾氏の系譜で検討した点である。

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顕吉の初見文書長尾顕吉安堵状(*1)が延徳3年6月であり、家督相続は延徳3年までのことと推測される。この安堵状は代替わりによるものと思われ、『長尾次第』から兄憲長の死去が延徳3年3月と推測されることを踏まえると、顕吉の家督相続は延徳3年6月の直近であった可能性が高い。

祖父房景が文明7年死去、父兵庫助がその後まもなくの死去と見られるから、文明前期の出生であろう。仮に延徳3年に15歳とすれば、文明8年生まれとなる。


2>「顕景」と「顕吉」
顕吉はその生涯で、実名「顕景」と「顕吉」を名乗ったことが花押型の一致から明らかになっている。では、いつ改名したのだろうか。

結論から言えば、はじめ「顕景」を名乗り、明応5年1月までに「顕吉」に改めた、と推測される。


まず、先述した初見文書の延徳3年安堵状(*1)には「前肥前守顕吉」とあるが、これが写本であり「前肥前守」と表現されている点を踏まえると、必ずしも延徳3年時の名乗りを表わしているわけではないように思える。


ここで、年不詳穴澤二郎右衛門尉宛長尾顕景書状(*2)に注目したい。署名は「顕景」である。花押型は長尾顕吉のものと一致している。

この文書で顕吉(顕景)は、往来が禁じられた「六十里山」が実際には往来があることについてを「府中」から自身へ責任を問われることを恐れ穴澤氏に注意を促している。すなわち、何らかの事情で守護上杉氏が越後と会津の国境封鎖を命じたが、実現できずにいる状況を憂いている文書である。

この文書について『越後以来穴澤先祖留書』に詳細が載る。それに拠ると「次郎右衛門尉景長」が「上田ノ兵庫助肥前守御父子」に奉公し、「常泰公」=守護上杉房定の方針により「六十里越」の往来を留めるように「兵庫助様」に命じられたという。この留書を解説する『越後入広瀬村編年史中世編』は「兵庫助顕景」と「肥前守顕吉」を父子と捉えているが、前述したように同一人物である。肥前守として後世に知られていた顕吉が当初兵庫助顕景として活動していたため、「兵庫助」と「肥前守」が二世代と思われてしまったのだろう。

また、守護上杉房定の関与が記されていることから、時期は明応3年を下らない。

兵庫助の名乗りに関しても、『長尾次第』に顕吉は「武庫様」とあり、名乗った可能性が高い。


以上から、当初は長尾兵庫助顕景として活動したことがわかる。また他にも、「顕景」署名の文書があるが、「府中様」=守護上杉氏や「信濃守方」=長尾能景とのやり取りが確認され、守護上杉氏体制が保たれていた永正3年以前の文書と見られる。延徳3年の文書も実際には「顕景」として発給したのではないか。


「顕吉」への改名時期はいつだろうか。『普光寺文書』には明応5年1月長尾顕吉安堵状(*3)がある。附年号が異筆であることなどを考えるとその利用は慎重さを要するが、明応5年までの改名はここまでの推定に矛盾しない。この場合、顕景署名の発給文書は延徳3年以降、明応5年以前に限定されることになる。


[史料1]『新潟県史』資料編5、3598号
今度一戦ニ□□□致討死候、無是非候、於心底も同前候、彼者子有由聞候、能々そたて名代之事可相継候、謹言
 四月十八日       顕吉
 穴澤次郎右衛門尉殿

[史料2]『歴代古案』2-549
於今度一戦、孫太郎殿致討死候、御忠節無比類候、府中様へ申上候間、定而可被成御感候、一身之落力迄候、以参御吊雖可申候、無其儀候、恐々謹言、
 四月十八日       顕吉
 江口式部丞殿


[史料1]、[史料2]は同日に発給された文書である。ある合戦で穴澤氏、江口氏の一族が戦死したため長尾顕吉がそれぞれに対応している。

ただ、この文書は年次が確定できない。『穴澤系図』の記載から永正7年4月荒浜合戦後に比定する向きもあるが、[史料2]中の「府中様」は明らかに守護上杉氏のことであるから上杉房能が守護として活動していた時期の文書である。明応5年以降、永正4年以前のものといえる。


以上より、顕吉への改名は明応5年1月までに行われたと推測される。


3>永正期における活動
永正4年になると守護上杉房能が自害し、守護代長尾為景が台頭する。上田長尾氏は関東管領山内上杉氏との繋がりが強かったが、越後守護との関係もちろん強い。

顕吉は、永正4年以降の長尾為景と山内上杉可諄の対立・抗争に関しては可諄に従っており、永正7年4月山内上杉憲房書状(*4)からは同月の深沢合戦、荒浜合戦において顕吉が山内上杉氏方として参戦していたことがわかっている。


[史料3]『越佐史料』三巻、612頁
就新六殿御下向慮外儀出来、誠口惜存候、此上毎篇御遠慮簡要候、為景事奉対貴所吉凶共不可有疎欝、長景事同意候、八幡大菩薩、春日大明神、諏方上下大明神可有照覧候、全不存別心候、只自幾も御思惟専一候、委曲景明へ申候間、抛筆候、恐々謹言
    十一月三日            中務小輔長景
   謹上 長尾肥前守殿

[史料3]年不詳11月長尾顕吉宛長尾長景書状において、「新六殿御下向」の際に「慮外儀」が生じたことが記されている。為景方の長尾長景から顕吉に宛てられており、「新六殿」とは次代房長のことである。

永正6年4月まで顕吉は山内上杉氏に従っており為景方との通交は考えにくく、上杉可諄戦死後の文書と考えられる。永正7年7月から9月に上田庄において長尾為景と反対勢力が抗争しており、この時点で上田長尾氏はまだ抵抗を続けていたことが推測される。[史料3]はその終結後の永正7年11月に比定できるのではないか。具体的にいえば、永正7年6月山内上杉可諄が戦死した後に長尾為景が顕吉ら反対勢力の残る上田庄を制圧し、顕吉も為景に帰属したと推測されるのである。[史料3]に見られる「新六殿御下向」は帰属の証明であり、「慮外」が発生しているあたり戦後の混乱が窺えよう。

永正7年の上田庄の抗争については過去記事山吉孫五郎と永正7年長尾為景の関東派兵 - 鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~()を参照してほしい。

永正期における長尾為景と山内上杉可諄・憲房の抗争において顕吉がいかなる立場をとったかについては、従来正確に検討されてこなかったように思う。例えば、井上鋭夫氏著『上杉謙信』や『新潟県史通史編2中世』では永正7年6月に上田長尾房長が寝返り関東への退路を絶ったため山内上杉可諄が長森原にて自害したとするが、俗説にすぎない。信頼できる一次史料にそのような事実は認められず、所伝の類にも登場しない。上述のように、史料を検討した結果私は上田長尾氏の為景への帰属を長森原の戦い以後の永正7年11月頃と見ている。上田長尾氏の動向は両者の抗争の中でも重要であるから、しっかり検討すべき課題であろう。


[史料3]が顕吉の終見であり、永正8年1月長尾房長宛上杉定実書状(*5)を皮切りに房長の活動がみられることから、房長への家督移譲が想定される。

山内上杉氏を離れ長尾為景への帰属したことが理由であろうか。或いは、房長は早逝した顕吉の兄憲長の嫡子であるから、房長の成人後に家督が譲られることは規定路線だった可能性もある。


追記
長尾房長宛上杉定実書状(*5)の年次比定は次の記事を参照してもらいたい。

当初は永正9年と推定していたが、長尾平六の戦死の検討から永正8年と考えられるため、訂正した。そのため、顕吉から房長への家督相続も永正7年9月から永正8年1月の短期間に限定できる。


4>没年
文書の所見より永正7年11月から永正8年1月までに家督を移譲したと推測される顕吉であるが、『長尾次第』に没年「享禄寅六月十三日」とあることから没年は享禄3年6月である。

年不詳6月19日長尾房長書状(*6)において楡井氏に対し顕吉三回忌における香銭への謝意が伝えられており、享禄5年6月の文書であるとわかる。また、この文書から顕吉の法名「寶樹永珎」が確実である。



以上が、長尾顕吉のおおまかな検討結果である。家督相続から移譲まで、名乗りの変遷など基本事項の整理ができたと思う。顕吉について把握することで、より綿密な上田長尾氏の検討に繋げていきたい。



*1) 『新潟県史』資料編5、2597号
*2) 同上、3601号
*3) 同上、2598号
*4) 『新潟県史』資料編4、1630号
*5) 『新潟県史』資料編3、103号
*6) 『新潟県史』資料編5、3578号

※21/8/22 追記あり
※24/6/29   永正7年の深沢合戦、荒浜合戦について誤って永正6年と記していたため訂正した。


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