上田長尾氏は越後国上田庄を拠点とした一族である。
『越後長尾殿之次第』という史料には「長尾豊前守景春」の次男「兵庫助景実」が「上田初行事」=初代とされる。「景春」は「古志上田両家初祖」と記されており、上田庄を拠点とする上田長尾氏の成立は景実の代に行われたと推測される。
『越後長尾殿之次第』(以下『長尾次第』)は、原本が天正期の成立で信頼できる史料といえる。以前、守護代長尾氏、栖吉長尾氏の系譜を検討した際にも利用したものである。
また、浦佐普光寺に伝わる『普光寺文書』、穴澤氏に伝わる『穴澤文書』と呼ばれる文書群に上田長尾氏の人物がまとまって所見される。
今回は、こういった史料類を中心に上田長尾氏の系譜を検討してみたい。
1>景実(兵庫助)
この人物は『普光寺文書』応永11年2月寄進状(*1)に「兵庫助景実」と署名があり、実在が確認できる。
前述したように、「長尾豊前守景春」の次男とされる。
2>房景(兵庫助/肥前守)
景実の次代は房景である。『長尾次第』は景実に娘しかいなかったため、栖吉長尾氏を継承していた弟宗景の次男房景が婿養子として上田長尾氏を継いだとしている。
『普光寺文書』に、享徳4年3月の日付で「兵庫助房景」が発給している安堵状(*2)が残る。
長禄3年3月快増・重継連署奉書(*3)には「越後国千屋郡之長尾肥前方」と見え、この時点までに「肥前守」を名乗ったことがわかる
長禄4年4月には上州羽継原合戦の活躍を賞する感状(*4)が他の越後領主らと並んで「長尾肥前守」=房景に発給されている。
さらに『普光寺文書』寛正2年11月制札(*5)、文明5年10月証状(*6)、文明7年6月安堵状(*7)にも所見され、実名は一貫して「房景」と見える。この文明7年6月安堵状が終見である。
『長尾次第』には、文明7年10月7日の死去とある。
3>某(兵庫助)と清景(上総助)
『長尾次第』によると、房景の子供には息子一人おり跡を継いだいう。「兵庫助殿」とあり、実名の記載はない。「早逝」し、二人の息子(後の憲長と顕吉)がいたという。
兵庫助の存在と子に顕吉がいることは、『越後以来穴澤先祖留書』に「上田ノ兵庫助肥前守御父子」という表現があることからも確認できる。
ただ、文書類において房景の終見後に所見される上田長尾氏の人物は『普光寺文書』文明19年2月制札(*8)に署名のある「清景」である。『長尾次第』の伝える房景の没年から10年以上経ており、清景が房景の次代である「兵庫助」と同一人物と考えると、「早逝」との記載に矛盾する。
ここで、文書の包紙に「上総助清景」と記載される点に注目したい。包紙は後世の作と見られるものの、清景は「上総助」を名乗った可能性がある。上田長尾氏は代々「兵庫助」と「肥前守」を名乗っており、例外的である。つまり、清景は嫡流ではなかった、と思われるのである。
房景死後、嫡子兵庫助が跡を継ぐも数年で死去してしまい、その息子たちが成長するまで上総助清景がいわば”繋ぎの当主”として文明後期に存在していたのではなかろうか。
兵庫助の次男とされる顕景/顕吉の初見が延徳3年であり、仮に兵庫助が父房景の死去から3年後の文明10年に死去したとすると、その間13年である。兵庫助の幼い遺児たちが成長する時間と見ると辻褄が合う。
『長尾次第』に清景の記載がないことも、このような点が関係しているのではないか。
清景については史料が少なく、出身は不明と言わざるをえない。自然に考えれば、上田長尾氏庶流といったところであろう。
以上から、房景の次代には実名不明の長尾兵庫助を推定し、家督相続後まもなく死去したと考えられる。また、兵庫助死後には一族の上総助清景が遺児たちの成人まで当主として活動していたと推測する。
4>憲長(兵庫助)
『長尾次第』によると、兵庫助の嫡子という。前述した兵庫助遺児の一人である。
『長尾次第』に、「兵庫助憲長」とあり息子「新六殿」=房長を遺して早逝したという。家督継承の前の死去であったと伝えられている。そのためか、文書上では確認されない。
兵庫助の名乗りや上杉氏から与えられたであろう「憲」の一字などから正統な後継者であったと推測される。
同記に、没年と法名が記載される。没年については、読みにくいが恐らく「亥三月十八日」とある。「亥」の年は、応仁元年、文明11年、延徳3年、文亀3年などとなる。ここで、次代顕吉の初見が延徳3年6月であること、息子房長の活動時期を踏まえると、延徳3年3月である可能性が高い。
また憲長の妻は、房長の母として記載される「上条殿」である。これをそのまま受け取ると、上条氏出身の女性と捉えられる。
後年、天文の乱において房長は上条定憲に与して長尾為景に敵対することを考えると、この上条氏は上条定憲の系統である可能性があろう。そうであれば、当時の越後における対立構図を血縁関係から考える上で示唆的な記録といえる。
5>顕景/顕吉(兵庫助/肥前守)
清景の次代として見える人物である。早逝した長尾兵庫助の次男であり、憲長の弟である。
初見文書の延徳3年長尾顕吉安堵状(*9)には「祖父判形」に任せて別当職を安堵することが伝えられている。「祖父判形」は文明7年房景安堵状のことである。
以降、顕吉の活動は永正7年まで見え、没年は享禄3年である。そして、顕吉の次代に憲長の遺児である房長が見え、さらにその次代が政景である。
顕吉の詳細、房長・政景父子の詳細についてはそれぞれ次回、次々回に検討していきたい。
ここまで、上田長尾氏の当主として
景実(兵庫助)=房景(兵庫助/肥前守)-某(兵庫助)=清景(上総助)=顕景/顕吉(兵庫助/肥前守)=房長(新六/越前守)ー政景(六郎/越前守)
という流れを推定した。
房景は栖吉長尾長泉の子。清景の出身は不明。顕景/顕吉は某兵庫助の次男であり兄に早逝した兵庫助憲長がいる。房長は憲長の子である。
*1)『新潟県史』資料編5、2591号
*2) 同上、2592号
*3) 同上、3785号
*4)『越佐史料』三巻、106頁
*5) 『新潟県史』資料編5、2593号
*6)同上、2594号
*7)同上、2595号
*8) 同上、2596号
*9) 同上、2597号
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