以下、コメント欄から引用
初めてコメントさせていただきます。毎日、非常に刺激的な記事をありがとうございます。
欅坂とAKBの関係性、興味深く読みました。もちろん、偶然を拡大解釈されているにしても、平手さんの圧倒的な存在感と、AKBから姿を消す島崎さんの対比は面白いと思いました。
そして、島崎さんの跡を襲うのが宮脇さんになりそうなのもまた興味深い。
その上で、この前日に指原さんがモーニング娘。さんとコラボするという記事も出ていて、これも重ねてみると、秋元グループの地殻変動が見えるような気がします。
今回の記事を読んで、欅坂は、ひらがなけやきという「外部」を取り込んで、アイドルの王権の位置を確実にするのではないか、と思ってしまいました。
Takaさん、コメントありがとうございます。
上から目線で申し訳ないですが、ぶっちゃけここで言う「錯覚」とか「拡大解釈」こそが、「神話」を越えて、私たちが知ってると思い込んでるところの「歴史」の正体でもあるわけです。明治の元勲も、戦国武将も、恐らくほとんど同様の仕組みで「歴史」という名の「物語」として生成されている。そこには本質的な差はない。
秋元氏の有名なプロデュース方針として「0を1にすることではなく、0.1を1にすること」というのがあります。つまり、無から有を作り出せばそれは100%の虚構ですが、わずかなりとも事実の種を最大限に膨らませれば、そしてそれが有意義なものであるならば、それが「錯覚」であろうと「拡大解釈」であろうと、そこに幻のように価値が生み出されるということです。
「平手さんの存在感」と言うとき、けれどもおそらく実際の平手さんはただの中学生の女の子に過ぎません。ただそこには余人に代えがたい生得の特異才能の兆しがある。少なくとも秋元氏には(当たり外れがあっても)それを見抜く力がある。その才能を極限にまで引き延ばす算段(プロデュース)をする。別の言い方をすると「盛る」。
当の平手さんからすれば、耐えがたいプレッシャーにしてストレスかも知れません。たぶん一人ではとても受け止めきれない。そりゃあそうです。0.1の器に1、つまり10倍の「期待」を(平手さんにとっては「不安」を)盛るわけです。それでも平手さん本人がそれを覚悟をもって引き受けようとする、特異才能が、そんな「過冷却」もしくは「過剰励起」を一瞬であっても可能とする。
一人では支えきれない過剰を背負う、けれども、それを一例21人で支えることができたなら、最初の0.1が1になることが可能となり、さらには1を越えて10にも20にも幻想が膨らんで行くことが不可能ではなくなるかも知れない。そのためには、21人の一人一人が、個を越えて平手さんに、そしてグループ全体に奉仕すること、つまりは共同体化が求められることになる。ここで肝要なのは個を「越えて」なのであって、決して「圧殺」してではないことです。
別の表現だと、平手さんという神輿を欅坂のメンバーが揺るぎない強固なスクラムを組んで高く担ぎ上げる。そんな欅坂を熱狂するファンが高く担ぎ上げる。平手さんが迷うことなく神輿となることを引き受け、そんな神輿を迷うことなくメンバーが、ファンが階層構造をもって全力で担ぎ上げる。するとそこには「神」が現前することになるでしょう。
かつて前田AKBで起こったことが、ふたたび欅坂で起ころうとしてるように見えます。もちろんまったく同じであるはずもなく、そもそも背景としての環境なり状況がまったく違いますし、前田さんと平手さんという、わずか0.1であっても決定的にして得がたい「火種」の部分での根本的な違いがあることでしょう。
以上の話は、まったくの虚構ではないだけであって、実際のところすべてが「錯覚」であり「拡大解釈」です。けれどもプロデューサーとして秋元氏が試み続けてるのはたぶんそういうことなんであり、私たちは確かに前田AKBという巨大な幻想の目撃者となってしまいました。
そして今また平手欅坂という「奇跡」の物語、「共同幻想」を紡ぎ出そうとしてるんだろうと思います。
初めてコメントさせていただきます。毎日、非常に刺激的な記事をありがとうございます。
欅坂とAKBの関係性、興味深く読みました。もちろん、偶然を拡大解釈されているにしても、平手さんの圧倒的な存在感と、AKBから姿を消す島崎さんの対比は面白いと思いました。
そして、島崎さんの跡を襲うのが宮脇さんになりそうなのもまた興味深い。
その上で、この前日に指原さんがモーニング娘。さんとコラボするという記事も出ていて、これも重ねてみると、秋元グループの地殻変動が見えるような気がします。
今回の記事を読んで、欅坂は、ひらがなけやきという「外部」を取り込んで、アイドルの王権の位置を確実にするのではないか、と思ってしまいました。
Takaさん、コメントありがとうございます。
上から目線で申し訳ないですが、ぶっちゃけここで言う「錯覚」とか「拡大解釈」こそが、「神話」を越えて、私たちが知ってると思い込んでるところの「歴史」の正体でもあるわけです。明治の元勲も、戦国武将も、恐らくほとんど同様の仕組みで「歴史」という名の「物語」として生成されている。そこには本質的な差はない。
秋元氏の有名なプロデュース方針として「0を1にすることではなく、0.1を1にすること」というのがあります。つまり、無から有を作り出せばそれは100%の虚構ですが、わずかなりとも事実の種を最大限に膨らませれば、そしてそれが有意義なものであるならば、それが「錯覚」であろうと「拡大解釈」であろうと、そこに幻のように価値が生み出されるということです。
「平手さんの存在感」と言うとき、けれどもおそらく実際の平手さんはただの中学生の女の子に過ぎません。ただそこには余人に代えがたい生得の特異才能の兆しがある。少なくとも秋元氏には(当たり外れがあっても)それを見抜く力がある。その才能を極限にまで引き延ばす算段(プロデュース)をする。別の言い方をすると「盛る」。
当の平手さんからすれば、耐えがたいプレッシャーにしてストレスかも知れません。たぶん一人ではとても受け止めきれない。そりゃあそうです。0.1の器に1、つまり10倍の「期待」を(平手さんにとっては「不安」を)盛るわけです。それでも平手さん本人がそれを覚悟をもって引き受けようとする、特異才能が、そんな「過冷却」もしくは「過剰励起」を一瞬であっても可能とする。
一人では支えきれない過剰を背負う、けれども、それを一例21人で支えることができたなら、最初の0.1が1になることが可能となり、さらには1を越えて10にも20にも幻想が膨らんで行くことが不可能ではなくなるかも知れない。そのためには、21人の一人一人が、個を越えて平手さんに、そしてグループ全体に奉仕すること、つまりは共同体化が求められることになる。ここで肝要なのは個を「越えて」なのであって、決して「圧殺」してではないことです。
別の表現だと、平手さんという神輿を欅坂のメンバーが揺るぎない強固なスクラムを組んで高く担ぎ上げる。そんな欅坂を熱狂するファンが高く担ぎ上げる。平手さんが迷うことなく神輿となることを引き受け、そんな神輿を迷うことなくメンバーが、ファンが階層構造をもって全力で担ぎ上げる。するとそこには「神」が現前することになるでしょう。
かつて前田AKBで起こったことが、ふたたび欅坂で起ころうとしてるように見えます。もちろんまったく同じであるはずもなく、そもそも背景としての環境なり状況がまったく違いますし、前田さんと平手さんという、わずか0.1であっても決定的にして得がたい「火種」の部分での根本的な違いがあることでしょう。
以上の話は、まったくの虚構ではないだけであって、実際のところすべてが「錯覚」であり「拡大解釈」です。けれどもプロデューサーとして秋元氏が試み続けてるのはたぶんそういうことなんであり、私たちは確かに前田AKBという巨大な幻想の目撃者となってしまいました。
そして今また平手欅坂という「奇跡」の物語、「共同幻想」を紡ぎ出そうとしてるんだろうと思います。