ああ私は良く知っております。慈しみ深き聖主が私が弱すぎる者であるという事を良くご存じでありましたから、この誘惑には逢いませんでした。万一私がこれに逢ったならば此の世間の偽りの光に全部焼かれていたかも知れません。しかしこの偽りの光が私の眼に入りませんでした。強き霊魂はもしこいいう場合罪悪の便りとなることがあれば、その楽しみは直ぐに棄ててしまう勇気がありますが、人々がこういう愉快を感ずる場合には私はいつも却って悩みに遭いました。それで弱き私の霊魂が、こういう儚く危ない世間の愛情に身を委ねなかったのは私の手柄ではなく全く天主様の御憐れみ、慈しみの結果であります。もし主が私を助け護ってくださらなかったならば、私はマリア・マグダレナの如く、大いなる罪悪に陥っていたかもしれません。聖主がかのファリサイ人なるシモンに向かって仰せられたところの「赦さるる事の少なき人は、愛する事の少なし(ルカ7の47)」という御言葉が、私の心に強く響きます。実際、聖主は私に対して、聖女マリア・マグダレナよりも多く赦してくださったのであります。いま私はこの事について心の中に感ずる事を充分ありのままに説明致したいのですが、言葉文字を以ってこれを表すことが出来ませんから、仮に一つの喩えを挙げましょう。
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