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小さき花-第5章~2

2022-09-02 17:48:29 | 小さき花

 私の此の祈祷は必ず聞き入れて下さると心の中に感じました。しかしなお続いて他の憐れな霊魂を立ち返らすために働く勇気を与えて頂こうと思って「主よ、私は不幸なるブランジニの罪科を赦して下さるという事を確かに信じます。よし彼は死刑を執行される前に、告解をもしませんでも又もし痛悔すること事を云い現わさないでも、私は主の限りない慈悲を深く信じておりますから、必ず彼を赦して下さるという事を疑いません。しかしこの者は私が改心させたい最初の罪人でありますから、何卒これが私の慰めの為に彼が痛悔の念を起こしたという何か1つの印を与えて下さるようお願い致します。」と。
 ところが私の祈祷は望む通りに聞き入れて下さい。父は決して私らに新聞を読ましめませんでしたが、私はこのブランジニに関わる記事を見る為に新聞を閲読しても、父の意に背かないと思いまして、彼が死刑を執行された翌日、急いでラ・クルワという新聞を見ました。「……このブランジニは告解をせずに絞首台に上がっておったが、今や役人がその命を断とうとするとき、彼は何か大いに感じたようになり、急に頭を振り上げてその側で神父が捧げていた十字架を眺め、急ぎこれを手に取り、三度その手足の御傷に接吻した……」という記事がありましたので、深く感じまして熱く主のお恵みに感謝しました。
 私の願った印は是であって、しかもそれが大いなる慰めの印でありました。私は御傷から流れるイエズス様の御血の御絵を見て、罪人の霊魂を救うという心の渇きを覚えましたから、彼らの汚れた霊魂を洗い清める為、この御血を与えて飲まさせようと思っておりました所が、不思議にも私の祈願の為に改心した最初の罪人は、かくのごとく御傷に接吻したのであります。ああ何という慈愛深き摂理でありましょうか!私はこの大いなる恩寵を受けましてから、多くの霊魂を助けようという望みが、日増しに熱してきまして。そしてイエズス様はいつも私に向って低い御声で、昔サマリアの婦人が水汲みに来た時に申された如く『我に飲ませよ(ヨハネ4ノ七)』と仰せらるように心に響きます。これは真に御主と愛の交換でありました。私は罪人等の霊魂にイエズス様の聖血を注ぎ、しかしてイエズス様にこのカルワリオ山の露に潤された彼らの霊魂を捧げるならばイエズス様の御渇きを癒したまる事が出来ると思っておりました。そして聖主に飲ませるほど、それほどますます私の渇きが増してくるようになります、が、この熱愛の渇きが最も愉快であって、また最も楽しい報酬のように見なしておりました。
 僅少の間に聖主は私の狭い希望が段々と広く大きくなるように導いてくださいました。即ち今迄のようにただ自分の霊魂のみを思うばかりでなく、進んで他人の霊魂を救う事も思うようになりました。しかしこれはただ最初の一歩だけで、まだ長い道が残っております。
 私は恩寵によって、何事も無駄気遣いという病気と、激しい感情の欠点が治されまして後、私の知識がおおいに発達し、今迄何か偉大なること、審美高尚なる事を愛しておりましたが、その時になお「知りたい」という激しい望みが起こりましたので、教師の許で学ぶだけでは満足せず、独力で他の専門学を修めておりました。それでこの数か月の間に、今迄何年の間に修めた学問よりもよほど好結果を得ました。ああこの「知りたい」という熱心な望みは、ただ精神の疲労空しいものではなかったでしょうか?私は物事に熱中する性質がありましたので、この望みを起こした時は、私にとって最も危険な時代でありました。しかし天主様は、私にエゼキエルという預言者の預言の中にあるような事をおこなってくださいました。即ち『私は愛せらるべき時期が来たのを、主がご覧になって、私と契合せられて私を主のものとせられました。そして主は私の上にその外套を広げて、値打ちある香料で私を洗いきらきらと光る衣装を着せ、値のしれぬ襟飾りと貴重な香料を添えて下さいました。また主は一番純潔な粉と、蜂蜜と油とを以って、私を豊かに養い育ててくださいました。そこで私は彼の目に美しいものとなりましたので、主は私を権能ある女王とさせられました。(16章8の13)』
 


小さき花-第5章~1

2022-09-02 12:00:39 | 小さき花

 【5】
 天井から私に莫大の恩寵を与えて下さいましたが、私はこの恩寵を受けるだけの功績も価値もない者でありました。私は善徳を行いたいという熱望をいつも絶えず抱いておりましたが、私の行為にはいろいろの不完全が混ざり、至って激しい感情が他人にとってはさぞうるさい事でありましてでしょう、そしてこの困った欠点は如何に諭されても直すことが出来ませんでした。
 然るにかような欠点がありながら、どうして近いうちに「カルメル会修道院」に入ることが出来るだぞと思っていたでしょうか、私はこの欠点に打ち勝つには、ぜひ一つの奇蹟がなければならないと思い、平素これを望んで居りましたところが、1886年の12月25日という忘れる事の出来ない日に於いて、聖主イエズス様は此の奇跡を行ってくださったのであります。
 即ち愛すべき幼きイエズス様は、この御降誕日の背中に私の霊魂の闇を破って光を輝かせてくださいました。そしてなおも私を愛するため、御自身は弱く小さいお方となられて、私を強く勇気あるものとされ、御自身の武器までも与えて下さいましたので、私はこの夜からいろいろの欠点に打ち勝つことが出来、勝利に勝利を重ね、丁度巨人の歩調の如く早く完徳の方に進むようになりました。私の涙の泉も乾いたので、ここから後は泣く事が稀になり、容易な事では泣かないようになりました。 母様、私はどういう場合に於いて、この図り難き貴重な恩寵を受けたという事を、ただいま申し述べましょう。この日の夜12時のミサ聖祭が住んで家に帰りました。姉たちはまだ私を幼児の様に取り扱って居りましたので、この日も例年の様に降誕祭の祝いとして、私の為にいろいろの菓子やおもちゃを木靴の中に入れ暖炉の傍に置いてありました。
父も私がその奇妙な靴の中から、いろいろの珍しい物品を取り出す度毎に喜ぶ声を聴いて喜んで居られましたから、私も父の喜びを見て益々愉快に感じて居りましたが、しかし今年は聖主イエズス様が私の幼年の欠点を除かせたい思召しでありましたから、園全農の摂理に依ってこの無邪気な喜びを止めさせてくださったのであります。即ち父は毎年の習慣に反して少し煩そうに「もうテレジアも大きくなったから、そんな子供らしいことも今年だけで終いにしよう」と私の心を貫くようなことを申すのを、私が二階に上がる間に聞きました。
 セリナは私の感情の激しい事を知っておりますので、直に私の後を追って二階に上がり低い声で「お前は直ぐに降りなさるな、ちょっと待ちなさい…いまお前が父様の前で、靴の中から取り出すときに、もう今年でお終いであるなどと思うと必ず泣くに違いないから……」と申しました。しかしこの時にはもはや私の心は聖主の恩寵を受け、以前とは全然変わっておりましたから、早く食堂に行く、涙と打ち騒ぐ動悸を抑えつつ靴を取り上げて父の面前に置きちょうど女王のような態度で喜びつつ中に入っているものを皆取り出しました。そのとき父は少しも不愉快な顔色がなく相変わらず微笑んで居られました。そしてセリナも私の泣かないのを見て夢のように思って居りました。幸いにも夢でなく一つの事実でありました。これはつまり私が4歳6か月の時に失っていた霊魂の根気を復活したもので再び失せぬようになりました。
 この光に照らされた夜から、私の第三の時代に移ります。この時代は一番幸福な時代で、また、天の恩寵の最も豊かな時代でありました。
 私は数年の間、遂げることが出来なかった大事業を、聖主が私の善意を御満足なさって、僅か一瞬で成し遂げてくださいました。すなわち私は使徒のように「主よ私らは終夜働いて何をも獲ませんでした(ルカ5の5)」という事が出来ましたが、主は弟子等に対して顕された御情けよりも、一層私に対して多大の御情けを顕して、御自ら網を取って魚充満に漁どられ、私を以って霊魂を漁どる者としてくださいました。
 それ故、私の心の中に愛徳が燃えるように起こり、同時に絶えず己を忘れねばならぬという必要を感じましたので、私はその時から幸福なものとなったのであります。
 ある日曜日、ミサが終ったのち、祈祷書を閉じましたところが、聖主が十字架にかかっておられる聖絵が挿し挟まれてあって、釘づけられて紅の血に染まっている片手が見えました。この時、私は胸も裂けるような悲しい残念な感じが起こって、この聖き御血が下に滴るのを見て、この御血の滴を誰も受けに行かぬのかと思って悲しみました。そして私はこの救霊の梅雨を受け取って、人々の霊魂の上に注ぐ為、いつも十字架の下に立とうという決心を致しました。即ち他人の霊魂を助けるという志が起こったのであります。
 それ故、その日からイエズス様の「渇き」という十字架上の叫びが私の胸に響きますので、私の心の中に今迄覚えなかった一つの不思議な烈しい熱愛が起こりました。即ち我が親愛なる聖主の渇きを癒したいと望むと同時に、私も多くの霊魂を助けたいという渇きを覚えたのであります。そこでよし如何なる犠牲を捧げても、多くの罪人を地獄の永遠の火から逃れさせたいという望みが起こりました。ところが聖主は私のこの熱愛を励ます為、我が熱望がご自分のお気に召すという事を示して下さいました。
 ある日、私はブランジニという大罪人が、恐ろしい殺人罪科の為に死刑の宣告を受けましたが、それでも痛悔の念を起こさず、永遠の処罰をも思っていないという談話を聞きましたので、どうにかしてこの人の憐れな霊魂を助けて、取り換えしのできない不幸から逃れさせたいと思い、いろいろとその手段に掛かりましたが、私一人の力では、どうする事も出来ないという事を知って居りますから、イエズス様の限りない功徳と、諸聖人の功徳とを捧げてその助けを祈祷しました。


小さき花-第4章~37

2022-09-02 12:00:03 | 小さき花

この会に入るため一週間に二三度、前の童貞学校に行きました。この時私は気恥ずかしいため、少し行きにくかったのです。無論童貞達を深く愛し、私になさる全てのことを皆有難く思っておりましたが、前に申し上げた通り、古い生徒たちの如く数時間も一緒に談話することが出来るように、特別に私を愛してくださる童貞がありませんでしたし、そして私は唯一人黙って稽古をしておりましても、誰も私に気をつけませんから、稽古が済むと直ぐ聖堂の二階に上がり、そこで父が迎えに来て下さるのを待っておりました。その時戸の寂しい聖堂の中で黙想する事が唯一の慰めでありました。私は他の人々と共に談話するのは唯私の心を疲れさせるばかりでありましたから、唯一の友なる聖主イエズス様を訪問し、この御方のみに会話する事を知っておりました。しかしまた他の者に棄てられ、置き去られるのは辛い時もありましたが、そういう時には父が私に聞かせた次の詩を繰り返して慰めを得ておりました。
  時は汝の住まいでなく汝の船路である。
 この詩が幼い時から私に勇気を与え、幼年のときに感じたいろいろの事でも忘れやすい今日、やはりこの船の比喩の詩を思うと、いつも愉快な気がして、この世界の島流しの苦しみを耐え忍ぶ力が起こります。また「人生は荒波を切って進み、その通った痕跡を残さない船の如きものである’知恵の書5の10)」という聖書の言葉を想うごとに、私は未来の事を考え、もはや永遠の岸に着いて、聖主イエズス様に面会して可愛がられるような感じが起こり、なお聖母は父や母や我が兄弟なる四人の小さき天使等を連れて私を迎えに来るように見る様な思いがして、いつまでも永遠の真の家庭生活の楽しみを得る様な心持が致します。私は天国にてこの永遠の真の家族の許に逝くまでにはどうしてもまだこの地上に於いて様々な悲しい別れや苦痛に遭わなければなりませんでした。私はこの「聖母マリア児童会」に入りました年、今まで私の霊魂上の唯一の慰め者であった長姉のマリアも聖母の為に選ばれて私と別れるようになりました。(このマリアは1886年10月15日「カルメル会修院」に入り、聖心のマリア童貞と命名られました)ポリナに別れてからは、片時もそばを離れなかった程、長姉を愛しておった私は、もはやこの世界に何一つの娯楽をも求めないと決心しました。彼女の決心を聞いた時の私の苦しさ悲しさうぁあらん限りの涙を流しました。無論、私は幼い時から涙もろくちょっとした事でも泣いておりました。ここで二三の例を挙げましょう。
 私は善徳を行うと大いなる望みを持っておりましたが、しかしこの徳を行うに妙なやり方を致しました。私は家政のことについては一切関係しませず、自分の事をするには慣れておりませんでしたが、時々天主を喜ばす為に寝台を片付けるとか、姉達が留守の時には庭園に植木鉢を入れるとかをしておりました。いま申し上げた通り、これは「ただ天主様のお気に召す為だけの目的でありましたので、別に人間から謝礼を言うのを待つはずがありません。不幸にもこれと反対に万一セリナなどが、些細な事でも私が手伝いしたことについて嬉しそうな様子を見せませんでしたら、私は直ぐに不満足な心が起こり、涙を以ってその不満足の心を表しておりました。
 なおまた私は若し誰かに心配を掛ける様な事をした時には、すぐにこれに打ち勝たず、病気になるほど心配し、自分の過失を償うよりはかえってこれを大きくしておりました。その過ちについて心配しないようになりかけますと、泣いたことを想って更に涙を流すという程涙もろく、何事でも心配の種となっておりました。しかし今日ではその時分と反対に儚く過ぎ去る此の世のことは、たとえいかなる事でも失望や落胆をせぬ恩寵を受けました、私は昔の事を思い浮かべるとまことに感謝に堪えません連鎖の如く長く続く天上の恩寵のおかげで、今日は全然別人の如くに変わってしまいました。
 長姉マリアは「カルメル会修院」に入りまして後、私はもはやだれにも心の内を打ち明けることが出来なくなりましたから、天国の方に眼を注いで、そこに私より先だって昇って居る幼い時に亡くなられた、4人の小さき天使達(兄姉)に親しみ祈っておりました。この4人の天使達はこの世にいる間には汚れなき者であって、心の乱れや恐れを少しも知りませんでしたから、いまこの世に残って苦しんで居る可哀想なこの妹を憐れむに違いないと思いました。それゆえ私は幼き無邪気な心を以って彼らに向かい「私は家族の中では一番末の子であるから、父や姉から特に愛せられたによって、御身たちもこの世界に居られるならば必ず他の姉妹の如く私を愛してくださるに相違ありません」「「彼らが今の天国に居るからというて、私を忘れるはずがない、却って天主様の宝の中にくみ取ることができるから、私のために安心平和を与えねばなりますまい、然して私に天国に居るものはなお愛を知っているという事を示さねばならぬ」という事を彼らに向かって願っておりました。間もなく返事が来て平和と安心とも以って私の霊魂が満つるようになりました。
 かくのごとく私はただこの地上に於いてばかりでなく、天に於いても愛されて居りました。そしてこの時から天国にいる私の小さい兄姉に対しての信頼が増して、たびたびその取次ぎを願った、私は彼らに向ってこの世界に島流しに遭った愁いの事を語り、早く永遠の天国に面会に行きたいという事を語るのは愉快でありました。