「イエズズキリストの模範」にも『天主様が時として烈しい光明によてご自分を示され、また時として温和に暗影形像(かげかたち)のもとに隠れて語らる(三巻43の4)』とかくの如く、私等の心に私の霊魂にご自分を顕してくださいます。しかし私にとってはこの暗影形像の幕が至って薄いので天主様が私の霊魂にご自分を顕して下さることは至って確かで少しも疑う余地がありません。それゆえもはや信徳と望徳が無くなって、私等が捜している所の御方を、この世界に於いても愛によって見つけることが出来ました。「雅歌」の中にも「この御方一人を見出したので、その御方が私に愛の接吻をしてくださって、この後誰も私を卑下する事が出来ぬよう計らってくださいました。(8の1)
斯様な深い天上の感想は、永く実らずにいることが出来ませんから、漸次にその結果が洗われまして、善徳を守り行う事は至って容易になり興味と愉快とを以って自然の傾向のようになってしまいました。最初馴れない中には、心の中の戦いが顔色にまで現れておりましたが、後には漸々と自分に打ち克つことが容易になったのであります。聖主が「総て持っている人は与えられて尚余りあらん(ルカ19の26)と仰せられたごとく、もし聖寵の或る勧めを充実に受けたならば、他の大いなる恩寵をなお与えられるのであります。聖主は私の望みに余るほど、度々聖体の秘蹟に於いて、御自身を自分に与えてくださいました。その頃私は神父が許される度々に良い覚悟をして聖体を受けておりましたが、その上に余計に聖体を受ける事を願わぬという規定をしておりましたが、今日であったならば、この規定を破って多く願うに相違ありません。今日は誰しも皆聖体を受けたいという希望がある時には、その希望を神父に言い表さねばならないという事をよく悟っております。また御主イエズズ様は毎日天上から降臨なさるのは、ただ祭壇の上の聖櫃におられる為ばかりではなく、他の天国、即ち我らの霊魂のなかに住居されるのを望んでおられるのであります。