かく憂い悲しみに沈んでおりましても、参りました聖き所については多大の興味を覚えております、幸いにもフロランスに於いて、カルメル会修道女等に取り巻かれているバジーの聖女マグダレナの遺物を見ることが出来ました。参拝者は各々のコンタツをこの遺物に触れようとしましたが、この格子の中に手を入れることが出来るのは、ただ私の小さい手だけでありましたので私は人々に頼まれてコンタツをこの遺物に触れる役をしました、これが長く続きましたが私は喜んでその務めを尽くしました。
私はこういう特別の取り扱いを得たのは今度初めてではありません、ローマに於いても、エルサレムの聖十字架の天主堂の中に聖き十字架の木片や、茨の冠の二つの茨や、御血の染まった一つの釘がありましたので、私は緩々とこれを拝見するために一番後まで残っておりました、その時この聖き御物を守護しておられる司祭は、以前の祭壇の上に納めようとせられましたので、私はこれに触ってもよろしいかと尋ねました、ところが司祭は「差し支えありません」と申されました。これはとにもこの細き鉄格子の中に手を入れる事が出来ないと思って申された様子でありましたから私は直ぐに小さき指を入れますと、御主の御血に染まった聖き釘に触ることが出来たのであります、かくの如く御主に対しての私の所業はちょうど自分には何事も許されていると思う子供のように、また父の宝をも自分の宝のように見做す子供のようなやり方でありました。
ピーズとゼヌを通り、立派な景色の或る所を過ぎてフランスに帰りました、途中汽車がときどき海岸に沿って走りますが、大暴雨のために海が荒れて波の飛沫が列車の窓を打つようなこともありました。それかと思うとまた広野に出て蜜柑の樹、橄欖の樹、美しい棕櫚の樹などの間を縫って走ります、また夕暮れとなって蒼空に二つ三つ星が輝き始めると、海岸にあるところどころの港の灯火が点いて得も言われぬ美しい景色となります。わたしはこの霊妙な光景を見ながら通り過ぎても、これよりもなお立派にして霊妙不思議な事の方に心を奪われておりましたので、別に名残惜しいようには思いませんでした。
父は私になおエルサレムまで旅行をさせるつもりでありましたが私は聖主の御在世中、生活なさった聖地を見たい自然の傾きがあるにも拘わらず、もはやこの地上のものを見るのはこれで十分でありますから、この上を望みません、それよりもただ天上の美しい事ばかりを望み、この天国の福楽を多くの人々に得させるために、自分は一日も早く「カルメル会修院」に入って囚虜のようになりたいと望んでおりました。
ああ私は望んでいる所の「カルメル会修道院」の門が開かれるのを見るまで、なお多くの戦いや苦しみに遭わねばならぬということを悟っておりました。それが為に天主様に対する信頼心が少しも減りません、そしてこの12月25日の御降誕日には望みを達する事が出来ると思っておりました。