Kさんの子どものころのおもいで話 「トチの思い出ものがたり」
主人公は、K坊やです
昭和40年代頃のお話です
商店街の一角、K坊やの家には、おおきな秋田犬がいました
その名も「トチ」といい、K坊やとはいつもラブラブ、大の仲よしでした
K坊やのお父さんは犬が大好き
なので、K坊やの家には、いつも犬がいました
K坊やが小学校にあがる前に飼われていたのが、この「トチ」でした
K坊やが幼稚園からかえって真っ先にむかうのは、秋田犬「トチ」の小屋
庭におかれたおおきな犬小屋にはいり、K坊やと「トチ」はハグしてじゃれ合います
「トチ」は、立派でおおきくて、そして、おだやかでお利口な秋田犬
おもさは40キロもあろうかという「トチ」なので、背たけもあります
そんな「トチ」の背中にまたがって、K坊やは「トチ」のおしりをバチバチとたたきます
でも「トチ」は嫌がるどころか喜んで、K坊やを背中にのせて歩きまわります
遊びつかれたK坊やが犬小屋のなかでうたた寝すれば、「トチ」も寄りそって寝そべります
そんなK坊やと「トチ」をみて、お父さんは「こまったものだ、犬なんかと寝て・・・」とつぶやいていました
ある日のこと、K坊やは、幼稚園から帰ろうとしてわが目をうたがいました
幼稚園の門のところに、なんと、あの「トチ」が自分を待っているのです
これは、家の犬小屋からぬけ出してきたにちがいない!
―― K坊やの予感はあたっていました
「トチ」は、その後も、たびたび幼稚園にK坊やを迎えに来るようになりました
犬小屋のかべをやぶり、鍵をこわし、手綱をくいちぎって、犬小屋をぬけ出し、K坊やに会いに幼稚園へ行くのです
「トチ」は大好きなK坊やが家にかえってくるのが、待ちきれなかったのでした
でも、「トチ」がK坊やのかよう幼稚園に行くには、駅前につづく商店街を通らなければなりません
商店街のうらには、住宅街がひろがっています
そんな中を、おおきな秋田犬が闊歩していきます、しかも、飼い主なしに・・・
商店街のひとも、住宅街のひとも、そんな「トチ」にまゆをひそめました
「こんな大きな犬が、人通りのおおい道を勝手にあるくなんて、こわくてたまらない」
「犬が幼稚園や店や家のまわりをうろつくなんて、絶対にやめてほしい」
「子どもや家族が、この犬にかまれたりしたら、一体どうしてくれるんだ」
「トチ」はだれのこともかんだり吠えたりしなかったのに、周囲からは白い目でみられました
当時は、飼い犬といえば、雑種のちいさな犬が主流だった時代
血統書つきの大型犬は、ちょっと目だった存在でした
「トチ」は、犬小屋や綱をがんじょうにしても、なんども小屋をぬけてしまいました
そして、とうとう幼稚園の保護者会でも「トチ」のことが問題になりました
「子どもたちの安全と、犬と、どちらが大事なんだ」
「おおきな体で、体力をもてあますから、逃げだすんじゃないか」
「おおきな犬には、町中でなく、ひろい土地のある田舎ぐらしがにあうだろう」
と話がすすみ、おおきな秋田犬「トチ」に、まるで町から出ていけといわんばかり
商店街の人たちからの苦情もふえて、K坊やのお父さんは「トチ」を手ばなすことを決めました
箱根にすんでいる知人が「トチ」をもらいうけ、大切に育てると約束してくれました
K坊やは、その話をきくとショックのあまり大声で泣きわめきました
「トチがいったいどんなわるいことをしたっていうの?」
「トチは何もわるいことなんてしてやしない。ただ、町中では飼えないんだよ」
「どうして箱根の人んちになんかあげちゃうんだ?もういっしょに遊べなくなっちゃうじゃないか!」
「そうだよ、もういっしょには遊べない。でもトチはひろい場所でおもいきり遊べるよ、そのほうがしあわせなんだからね」
「でも、トチと遊べないなんていやだ、ぼくはちっとも楽しくないよ!」
「 自分さえ楽しければ、トチやほかの人がしあわせでなくてもいいのかね?」
K坊やは、しぶしぶ納得せざるをえませんでした
数日後、K坊やが幼稚園から家にかえると、もう犬小屋に「トチ」の姿はありませんでした
K坊やがだれもいない犬小屋にはいると、かすかに「トチ」のにおいがしました
K坊やは「トチ」が大好き、「トチ」もまた、K坊やが大好き
大好きな者どおし、ただ、たのしくいっしょに遊びたかっただけなのに・・・
そんな一途な思いが、ぎゃくに、大好きな者どおしを離ればなれにしてしまいました
しばらくして犬小屋が取りこわされると、「トチ」のおもかげはどんどん遠のいていきました
時がたち、K坊やは幼稚園から小学校にあがりました
小学生になったK坊やは、毎日の生活がワクワクの連続です
勉強はたいくつでしたが、放課後ともだちと自由に遊べるのは、なによりおもしろく楽しかったのです
あんなに大好きだった秋田犬の「トチ」でしたが、思いだすこともなくなっていました
そして、「トチ」がいなくなって2年がすぎたある日、K坊やが学校から家にかえってきた時のこと
家が近づくにつれて、玄関のまえにおおきな犬が一匹、立ちすくんでいるのがみえました
その犬はからだがよごれて泥だらけ、しかも、ガリガリにやせています
「あんなおおきなノラ犬がいたんじゃ、こわくて家に入れやしない」
K坊やは、近所のお店にむかって声をかけました
「おじさん、ちょっと来てよ。こわい犬がいてさ、ぼく家に入れないんだよ」
そうざい屋の店主が出てきました
そして、その犬を見るなり、がたがたと震えだしました
「おい、K坊、あれは、あの犬は・・・」と、その声も震えています
< 中編につづく >
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