お父さんは、「トチ」をゆずった箱根の知人に電話をかけました
「実は、トチなんだが、今うちに来ている・・・
ああ大丈夫、元気だよ・・・ やせてるが、飯も食ったし、落ちついてるよ・・・
ところで、もし、トチを飼うのが大変なら、こちらでまた、引きとることができないわけじゃないが・・・
ああ、そうだな、わかったよ・・・ じゃあ、待ってるからな・・・
それまではこちらで面倒みるから、心配しなくていいから」
K坊やは、トチは箱根がきらいで逃げてきたんじゃないかと心配でしたが、お父さんいわく
「箱根のうちでも、トチが無事にこっちに来ていることがわかって、本当に喜んで、ほっとしていた
家族みんなでかわいがって育ててきたのに、突然いなくなって、奥さんはショックで寝こんでしまったそうだ
2年も暮らせば情がうつって、トチのいない暮らしは考えられないから、是非かえしてほしいと言っている」
「でも、いなくなっても、ほうっておいたから、こんなにガリガリになって、うちまで来ちゃったんじゃないか」
「そうじゃないぞ。トチのチラシをつくってまいたり、人を何人もたのんで毎日さがしていたそうだ
それに、警察や保健所や猟友会にもすぐに連絡して、なにかあったら教えてくれるように頼んでいたらしい」
「保健所?猟友会?それってなあに?警察なら迷子だからわかるけど・・・」
「もしトチがノラ犬や野犬にまちがえられれば、狂犬病だといけないからって保健所がつかまえて、殺してしまったかもしれないんだ
山で狩りをする人たちも、もしかしたらトチを獲物とまちがえて、撃って殺してしまったかもしれない
それに、警察だって迷子の世話だけってわけじゃないんだ
車にひかれて交通事故にあう動物だって、たくさんいるからね」
「そんなあぶない目にあうかもしれないのに、わざわざここまで来たなんて・・・」
「保健所も猟友会も、車の事故も、みんなヒトの勝手だ。動物には、まったくめいわくな話だ
とにかく、トチを逃がしてしまって申し訳ない気持ちでいっぱいだったと言っていたよ
箱根からむかえが来るまでの間、トチを休ませて栄養をつけさせないといけないな」
この夜、はじめてK坊やは「トチ」とならんで、家のなかで寝ました
この時だけは、犬といっしょに寝ても、お父さんはとがめたりしませんでした
翌日から、前にもまして、K坊やは「トチ」をかわいがりました
お父さんとお母さんは、仲良しどうしをひき離すのをかわいそうに思いながらも、「トチ」を箱根にかえすと決めていました
「K坊、トチはもう、うちの子じゃなくなっているのよ」
「今度の日曜日、箱根のおじちゃんがトチをむかえにくるから、そのつもりでいろよ」
日曜日、箱根のおじちゃんが「トチ」をむかえにやって来ました
「このたびは誠に申し訳なかった、今後このようなことのないように十分に気をつけるよ」とあやまりました
そして、おじちゃんが「タロー」とよぶと、「トチ」はしっぽをブンブンふって突進していきます
おむかえに来てもらったことがわかるのか、大喜びではしゃいで甘えています
K坊やは、その時の「トチ」の姿をみて、はっきりとわかりました
「トチは、もう、うちのトチじゃないんだ。箱根のタローなんだ・・・」
箱根のおじちゃんは、箱根でとった「トチ」の写真を見せてくれました
写真には、犬専用のひろい裏庭で、穴掘りしたり走りまわったりしている「トチ」がうつっていました
箱根の山歩きにつれて行ってもらっている写真もありました
K坊やは思いました
(トチはおじちゃんと家族のみんなに大切にされて、楽しく暮らしているんだな
おおきなトチにとっては、自由に歩くこともできない町中より、箱根にいるほうが幸せかもしれない・・・
そうだ、僕もトチを大切にしよう、僕がトチを幸せにしてやろう)
夕方になり、いよいよ「トチ」をつれてかえる時になりました
「トチ」は、軽トラックの荷台の檻に乗せられました
K坊やは、荷台に乗った「トチ」にむかって叫びました
「トチ、お前、もう二度とここにはかえって来るな~
かえって来ようとすれば、途中の道は危険だらけで、いつ死んでしまってもおかしくない!
だったら、もうかえって来るな~!
箱根で元気に生きていろ~!
会えなくてもいいから、元気でいろ~!
みんなにかわいがってもらって、幸せに、元気で、生きていろ~~」
軽トラが動き出すと、荷台に乗った「トチ」が声をあげました
「ウォーン、ウォーン」と、まるで、K坊やの叫びに応えているようです
「トチ~、かえって来るな~!」
「ウォーン、ウォーン」
「トチ~、箱根で元気に暮らせよ~!」
「ウォーン、ウォーン」
お母さんは「トチが悲しんで泣いているわ」と涙をこらえています
が、お父さんは「なに、車に乗ってすこし興奮して吠えているだけだ」と平静をよそおいました
「トチ」を乗せた軽トラが、町の角をまがると、やがて「トチ」の声も遠ざかっていきました
こうして、K坊やと「トチ」は、お別れしました
その後、K坊やと「トチ」は二度と再び、会うことはありませんでした
「トチ」はK坊やに会いたい気持ちをおさえて、K坊やの言いつけを守りつづけたのでした
その後、箱根からは、毎年決まった時期に「トチ」の元気そうな写真が送られてきました
そして、年月がたつにつれて「トチ」が老いていく姿が写真からもわかるようになりました
ある年突然に、「トチ」が亡くなったという知らせといっしょに、生前の「トチ」の写真が送られてきました
それを最後に、箱根から写真が送られてくることはなくなりました
K坊やのお父さんは、無類の犬好きでしたので、「トチ」のあとにもいろいろな犬を飼いました
親戚にも犬を飼っている人がおおく、すっかり中年になったKさんは、今までに何十頭という犬に接してきました
どの犬もみんなおとなしく人なつこい子ばかりなので、Kさんも他の人たちとおなじようにかわいがろうとしますが、どの子も、けっしてKさんにはなつきません
それどころか、Kさんにはうなったり、時にはかんだりする子もいました
もしかしたら、この世でK坊やと遊びたりなかった「トチ」が、天国でやきもちをやいて、Kさんと他の犬が仲よくならないように、おまじないをかけているのかもしれませんね
<おしまい>
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