*公式サイトはこちら 相鉄本多劇場 22日まで
ひとりの劇作家の作品を複数の演出家が自分の手法で構成し、立体化する。戯曲の朗読という枠を越えて、舞台表現の新しい可能性を探り、戯曲の世界をより鮮明に示そうとする横濱・リーディング・コレクションの公演も、今回がファイナルとなった。三島由紀夫の作品を気鋭の演出家4人が「読む!」。田口アヤコ(COLLOL)が「美と共同体と東大闘争」、片山雄一(NEVER LOSE)が「わが友ヒットラー」、石神夏希(ペピン結構設計)が「レター教室」、矢野靖人(shelf)が近代能楽集の「班女」を。
初日の今日、ABプロ通し上演をみることができた。リーディングという一種の縛り、制約はあるものの、逆にその作品に対する演出家の捉え方が全面にでることもあり、演出家の波長とみる側のそれが合えば楽しめるのだが、意図を掴みかねると、途端に集中できなくなる。この差は自分でも驚くほど顕著であった。
この公演の総合ディレクターである矢野靖人による「班女」が一頭地を抜く出来栄え。登場人物よりも出演俳優が多いのでどうなるのだろうと思ったら、こういうことだったのか。明日まで公演があることと、自分の筆に自信がなく、今夜の段階でじゅうぶんに書けない。たった3人の人物が相手に向かって吐く言葉と、その奥底にある心模様。劇が始まった当初はク・ナウカのスピーカーとムーバーの手法か?と思ったが、演出家のさらなる深い読み込みが感じられるものであった。特に終幕、実子(川渕優子)は、言葉もなく茫然と座り込んだ女(大川みな子)の肩を抱き、最後の台詞「素晴らしい人生」を言った後、肩越しに後ろを振り向いて花子(百花亜希)と見つめ合う。この演出にどんな意図や意味があるかを考察するよりも、そのすがたからこちらに伝わってくる何かを確実に心に刻み、戯曲をもう一度読み直そう。
最初に足を運んだのは2006年の『福田恒存を読む!』より、椎名泉水演出の「わが母とはたれぞ」であった。そこでスタジオソルトのことを知り、以後相鉄本多劇場は、わくわくと心躍らせて通う場所になった。リーディングがこれで最後になるのは寂しいが、ここで生まれたものがさらなる新しい舞台表現に繋がることを、そして自分もみて書く側として、深く豊かな考察ができることを願う。そう強く思える体験を与えられた横浜の夜に感謝したい。
ひとりの劇作家の作品を複数の演出家が自分の手法で構成し、立体化する。戯曲の朗読という枠を越えて、舞台表現の新しい可能性を探り、戯曲の世界をより鮮明に示そうとする横濱・リーディング・コレクションの公演も、今回がファイナルとなった。三島由紀夫の作品を気鋭の演出家4人が「読む!」。田口アヤコ(COLLOL)が「美と共同体と東大闘争」、片山雄一(NEVER LOSE)が「わが友ヒットラー」、石神夏希(ペピン結構設計)が「レター教室」、矢野靖人(shelf)が近代能楽集の「班女」を。
初日の今日、ABプロ通し上演をみることができた。リーディングという一種の縛り、制約はあるものの、逆にその作品に対する演出家の捉え方が全面にでることもあり、演出家の波長とみる側のそれが合えば楽しめるのだが、意図を掴みかねると、途端に集中できなくなる。この差は自分でも驚くほど顕著であった。
この公演の総合ディレクターである矢野靖人による「班女」が一頭地を抜く出来栄え。登場人物よりも出演俳優が多いのでどうなるのだろうと思ったら、こういうことだったのか。明日まで公演があることと、自分の筆に自信がなく、今夜の段階でじゅうぶんに書けない。たった3人の人物が相手に向かって吐く言葉と、その奥底にある心模様。劇が始まった当初はク・ナウカのスピーカーとムーバーの手法か?と思ったが、演出家のさらなる深い読み込みが感じられるものであった。特に終幕、実子(川渕優子)は、言葉もなく茫然と座り込んだ女(大川みな子)の肩を抱き、最後の台詞「素晴らしい人生」を言った後、肩越しに後ろを振り向いて花子(百花亜希)と見つめ合う。この演出にどんな意図や意味があるかを考察するよりも、そのすがたからこちらに伝わってくる何かを確実に心に刻み、戯曲をもう一度読み直そう。
最初に足を運んだのは2006年の『福田恒存を読む!』より、椎名泉水演出の「わが母とはたれぞ」であった。そこでスタジオソルトのことを知り、以後相鉄本多劇場は、わくわくと心躍らせて通う場所になった。リーディングがこれで最後になるのは寂しいが、ここで生まれたものがさらなる新しい舞台表現に繋がることを、そして自分もみて書く側として、深く豊かな考察ができることを願う。そう強く思える体験を与えられた横浜の夜に感謝したい。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます