*デイヴィッド・グレッグ作 谷岡健彦翻訳・ドラマトゥルク 高田恵篤演出 公式サイトはこちら ザ・スズナリ 18日まで
「1990年代以降のスコットランド演劇界の中核的存在」(公演チラシより)の劇作家デイヴィッド・グレッグの作品が日本初演。その初日を観劇した。
プロデューサー、翻訳・ドラマトゥルク、演出家、俳優陣、スタッフのチームワークで作り上げた力強い舞台だ。この作品を上演したい、客席に届けたいという熱意が伝わってくる。ほんとうならじっくりと日にちをかけて考えてから書いたほうがよいのだが、この夜のいまの自分の気持ちを何とか書き記しておきたい。「書けないかもしれない」この不安から逃げないことが、今夜本邦初演の舞台初日をみる幸福を与えられた自分の課題である。
スコットランドの港町に住む高校生リー(柄本時生)は、ふとしたはずみで母親の交際相手(下総源太朗)を殺してしまう。たまたまいっしょにいた同じ高校生のレイラ(門脇麦)を連れて、リーは吹雪の山へ逃亡する。そこで山小屋の管理人(下総2役)に助けられたり、セレブなスター?(中川安奈)に出会ったりしながら何とか生き延びるが・・・。
短いシーンがたたみかけるように続き、場所も時間もどんどん変わる。4人の俳優は登場人物としての台詞だけでなく、ト書きや小説で言えば「地の文」に近い文体のことばも話す。
風変わりな構成の作品だ。しかし重要なのは、その構成の特殊性が強く前面に押し出されていない点だ。ト書きと台詞、人物の独白とナレーションが絡み合う。これまで登場人物が語り手あるいは狂言回し、進行役的な役割を果たす作品はいくつかみたことがあるが、本作はそのどれとも違い、劇世界と観客の距離、人物と演じる俳優の距離がなかなか把握できないのだ。その感覚は不安でもあり、軽く苛立ちもするが、決して舞台をみる妨げにはならない。かといって、やはり単純な作りではなく、これはそうやすやすと劇世界に身を委ねることができそうもない、手強い戯曲だぞ。
たとえばレイラはムスリムの無口な少女なのだが、前述のような構成なので話すことばは多い。それらを聞きながら、「あ、彼女はここでは黙っているのだ」と何度か自分に意識させようとした。また彼女はリストカットの自傷行為をして、腕の痛みを感じ流れる血をみるとき、「リアルで、まるで自分が物語の登場人物になったみたいな気持ちになる」(注:台詞は記憶によるもの)と語る。からだが痛い、血が流れている。そのリアル感が「物語の登場人物になったみたい」であると。矛盾しているのだが何となくわからないでもない。彼女自身のリアルの実感も、このように揺れ動く。
観客の目に見えていること、聞こえていることとは、ほんとうではない。いやお芝居はほんとうでないことをほんとうのようにみせるものなのだから、でも俳優の肉体がそこにあって、声がじかに聞こえてくるのはほんとうのことだ・・・と混乱してくるのだ。しかもその混乱が心地よい。
本来なら読まれない、聞かれないはずのト書きや地の文まで、溢れんばかりなのに、それでもすべてがわからない。
人物は饒舌に語っているのに、劇世界ぜんたいは寡黙な印象があるのである。
当日リーフレット記載のプロデューサー綿貫凜の挨拶文によれば、「何も制約がないのがこの戯曲の最大の魅力ではあるが、どれを選択するか、参加者全員がいくども迷走し、混乱した」とある。作り手の労苦は想像もできないが、少なくとも客席にいる自分は試行錯誤を含めて本作を受けとめたい。
2007年秋『アメリカン・パイロット』はリーディング公演と銘打ってあったが、今回のようないわゆる「本式の上演」の形をとっていても、ふと「これはリーディングかしらん」と思わせたり、どこまでが戯曲の指定で、どこからが演出なのかと観客を迷わせ、悩ませながら、気がつけば劇世界に取り込んでしまうところに、劇作家デイヴィッド・グレッグの魅力の手ごたえを得た。
帰りの電車の座席にすわって発車を待っていたとき、緊急地震速報を知らせる携帯メールがあちこちからいっせいに鳴り出し、直後に強く揺れた。数分後に電車は無事に動き出したが、スズナリはおそらく初日祝いの最中であったと思われるし、ほかにも強い揺れのなかで、まさにクライマックスを迎えようとしていた舞台もあったのではないか。どうか無事に幕を閉じ、お客さまが安心して帰路に着けますように。
今夜はひとまずここにて拙い筆を置く。できればもう少し深く、『黄色い月』について考えたい。
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