*中津留章仁 作・演出 公式サイトはこちら ワーサルシアター 24日まで
今年はじめのこと、知人から「中津留章仁の舞台をみたことがあるか。『テアトロ』の演劇評論家の座談会で絶賛されている」というメールがあった。それまで公演折り込みのチラシで名前をみた記憶はあるものの、公演に足を運んだことはなかった。本公演はすでに13日に開幕しているにも関わらず、チェックしていなかった。情報収集の意識はもっと鋭く持っていなければだめですね。改めて寡聞と不勉強を自覚する。
今回の震災は、被害があまりに甚大であること、地震や津波に原発事故が追い打ちをかけ、その影響がどこまでどのようにいつまで続くのか想像の及ばない事態に陥っている。現状が生々しくて重すぎ、震災を題材にした舞台を作るには危険が伴うのでないか。
しかしその震災に正面からぶつかる力作が現れた。この混乱のなかで戯曲を書き、稽古をし公演を実現したことに驚嘆する。作・演出の中津留はもちろん、出演俳優、公演スタッフが文字通り総力を結集したのであろう。
時は東日本大震災から数カ月後と思われる。登場人物の話す言葉から特定はできないが、震災による直接の被害はない場所で、過疎地といってもいいくらいの地方の小さな町の公民館にやってくる青年団のメンバーたち。台風の通り道でそのたびに土砂災害が起こり、この夜も台風が接近して、下の階には避難している人がいるものの、「いつものことだ」「どうせ何も起こらないけど、まあ一応」とのんびりしている。青年団の会議の議題は今年の祭りについてである。昨年の土砂災害で亡くなった人があり、例年通り行うか自粛するかが問題になっている。
地元の青年のなかにひとり、「東京から出戻り」(当日リーフレットのキャスト表より)の万里がいる。彼は昨年の土砂災害によって両親と家を失った。彼自身は東京で働いていたのだが、震災が起こってのち帰郷した。これまで青年団の会議でもほとんど発言せず、ずっと地元にいた青年たちともなかなか溶け込めない万里が意を決したように立ちあがる。メンバーたちはそれぞれ台風とは無関係に気になることがあって早く会議を切り上げたいのだが、万里の発言によって会議は紛糾し、問題が思わぬところへ発展してしまう。
『十二人の怒れる男たち』を想起させる作りであるが、人物ひとりひとりのキャラクターの描き分けや設定がありきたりなパターンになっていない。万里は「災害対策をもっと真剣に行おう」と訴えるのだが、そのなかに今回の震災をめぐるさまざまな問題があぶり出されてくる。特に万里がなぜ東京を離れたかを話す場面では、「よくぞ言ってくれた」という思いと同時に、直接被災していない場所に暮らす居心地の悪さ、うしろめたさを突かれて、ざらついた思いがした。
中津留は震災について本気で考え悩み抜き、この作品を書き上げたのだろう。どうしても書きたい、書かずにはいられなかった。その強い思いが情緒におぼれず、ドキュメンタリー的な作品の場合、往々にして情報が盛り込まれ過ぎて、人物の台詞が情報、劇作家の(あるいは取材した人の)意見のように聞こえてしまう傾向があるが、血肉をもつ者として俳優ひとりひとりがしっかり存在しており、その人が発する言葉として客席に伝わってきた。
それでも作りの粗いところもあって、登場人物のひとりが「看護婦」と書かれているが、これは「看護師」ではないのかとか、その看護婦が怪我人に対して落ち着いた気丈な態度で接しているものの脈をとる様子もなく、怪我人の状況について専門職らしい台詞があまりないことが気になった。また怪我人は重篤にみえたが、救急ヘリに乗ってきたドクター(登場しない)によれば「命に別条はない」ということで、何よりなのだがこの台詞はあっさりしすぎではないか。停電のさなか、メンバーのひとりが「お茶入れてくるね」と奥の部屋に姿を消す場面にも違和感があった。お湯はどうしたのか、暗い中ではお茶を入れるにも不自由だろうに等々、話の本筋に影響はないとはいえ、力強い作品に小さなほころびがあることは惜しい。また後半から物語の流れがいささか冗長になったことも残念だ。
とはいったものの、かりにもっと時間があって練り上げたとしたら、本作がいま放っているエネルギーが損なわれるのではないかと思う。これからのち、震災をめぐる舞台が作られていくだろう。取り上げ方も直接間接さまざまで、現実に起こった大災害に対して演劇が何をなし得るかが問われる。多くの演劇人が問いを与えられ、その答を模索しているだろう。『黄色い叫び』はこれから生まれる多くの舞台の先陣を切った。心に強く覚えておきたい。
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