*荒戸源次郎演出 松枝佳紀(1,2,3,4,5,6,7)企画・脚本 公式サイトはこちら 新国立劇場小劇場 31日まで
三島由紀夫とならび、もっともノーベル賞に近いと言われていた小説家であり、映画やテレビ、ラジオ、音楽、写真など多方面で活躍していた安部公房(Wikipedia)が、1970年代にたどり着いた演劇、そこで出会った俳優志望の若い女性と舞台美術家である妻、ふたりのあいだで彷徨するさまが作品の核であるが、もういっぽうで彼らが演劇において何をしようとしたか、映像や小説とはどのようなところがちがうのかという比較文化的な問題もまた重要な核である。
舞台上手に妻の真知子(辻しのぶ)と暮らす部屋の食卓、下手には恋人あかね(縄田智子)と過ごす書斎がつくられ、安部公房(佐野史郎)はそのりょうほうを行き来しながら、小説を書き、大学のゼミで教え、映画の準備などを行う。ピエロのような格好をした男(内田明)が劇の進行役、狂言回しをつとめる。
大がかりな舞台美術はなく、照明も控えめで、音楽は終幕近くにフォーレの「夢のあとに」が流れるのみだ。あるのは俳優4人、というより4人の生身の人間がぶつかりあい、傷つけあい、交わり合うさまである。多くの映画のプロデュースを行い、自身も映画監督である荒戸源次郎(Wikipedia)の演出は、ぎりぎりまでものを削ぎ落し、人間の肉体、肉声、魂を舞台にさらけだし、観客に迫る。生々しい男女の交わりを描きながらも、舞台には静謐な空気があって、新国立劇場小劇場の空間によく合っている。
安部公房が亡くなって20年が経ち、昨年出版された山口果林の『安部公房とわたし』(Amazon)によって、その才能の非凡なることが再び注目されている。松枝の企画もこの回顧録を舞台化したいという荒戸源次郎の希望からスタートしたとのことだ。
パンフレットにはたいてい稽古場風景など写真がたくさん掲載されているものであるが、文字がいっぱいである。驚いたのは本公演の上演台本を事前に読んださまざまな人と松枝佳紀との対談が掲載されているところである。対談のお相手は劇作家の川村毅、映画監督の行定勲、評論家の池内ひろ美、劇作家の谷
賢一、女優の橋本マナミ、松野井雅、小池花瑠奈と多士済々。
さらに映画監督の金子修介や燐光群の坂手洋二の寄稿もあって、非常に読みでのあるも
のになっている。ごたぶんにもれず松枝も台本の完成が本番直前になることが珍しくないそうで、今回はよほどがんばったらしい。もっとも台本は日々改稿されるため、坂手洋二は「本編中に安部公房のアの字もない」初稿を読み、ある女優さんは、演出の荒戸源次郎の要請によって、編集者や青年といった役柄をひ
とまとめにした「道化」が登場する稿を読んだという。
対談はいずれも公演がはじまる8月に行われており、稽古と編集作業を並行して行うのは大変な労苦だったのではないか。
いつもは作・演出を兼ねる松枝が、今回は演出を荒戸源次郎に委ねたこと。この決意と意味を、観客としてもきちんと考えなければならないと思う。
今回の舞台で松枝は劇作家として新境地を開いた。荒戸源次郎と出会い、ワークショップなどを通して人がらに接し、同じ舞台をつくる交わりを持てたことは、松枝自身がパンフレットの挨拶文に「幸運です」と記しており、舞台からも彼の喜びが伝わってくる。
これまでの松枝の舞台作品には映像の色合いが濃い印象があり、出演する若手俳優陣も汗や泥の匂いより、さっぱりと都会的な雰囲気の人が多く、舞台でみるにはいささかもの足りなかった。こうしたさまざまな既成概念を、今回の舞台によって払拭され、新しい目を開かされたのが、客席における自分の幸運である。
さまざまな資料を読み、じゅうぶんに考えて書かなければならないと思う。しかしともかく観劇当日にできるところまででよいから書いておきたかった。初日でも千秋楽でもないが、松枝氏はじめ今回の舞台に関わった方々に「おめでとう」と伝えたい。
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