因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

「非戦を選ぶ演劇人の会」ピースリーディングVOL.17『あなたは戦争が始まるのを待っているのですか?』 

2014-07-16 | 舞台

*非戦を選ぶ演劇人の会構成・台本・演出 公式サイトはこちら 全労災ホール/スペースゼロ 16日で終了(1,2,3,4
 今回は構成、脚本、演出に個人名はない。イラク戦争がはじまり、イラクへの自衛隊派遣、日本人人質事件、たび重なる政権交代、沖縄基地問題、そして東日本大震災と原発事故、特別秘密保護法案、憲法改正、集団的自衛権行使容認の閣議決定など、この10年の日本と世界の歩みを縦糸に、それに関わった人々の意見や手記を横糸に進行する。

「私たちは何を見てきたのか/私たちは何をしてきたのか/私たちは何ができなかったのか/私たちは何を許してしまったのか」

 公演チラシ(一部)や当日リーフレットに掲載されているこの文言には、この10年あまりの年月に起こったできごとと、それに気づかなかった、止められなかった、変えられなかったことの蓄積がいまの日本を形成し、不穏な空気を醸し出していることへのやりきれない思いが感じられる。その思いをもって、この会の歩み、それぞれの歩みを振り返り、「総力を挙げて検証」(チラシ)する舞台だ。

 今回は非常にシンプルなリーディング形式をとっており、核について調べている大学生や、沖縄に取材にいく劇作家など、いわゆる物語を構成する人物は出てこない。日本で世界で、いつどのようなことが起こったかが次々に語られていく。量、内容ともに圧倒的なもので、観客は耳で聞いて頭で理解し、考えるという作業をひっきりなしに行うことになる。そのなかで益岡徹が安倍首相を演じる場面は、益岡さんがあざといものまね風の演技をしないことがかえって功を奏し、笑いの多いところとなった。

 終盤に、木場勝己によって井上ひさしの『子どもにつたえる日本国憲法』が読まれると、客席が水を打ったように静まり、劇作家はまさにことばによって人の心にさまざまなものを与えよう、伝えようとしたことがわかる。井上作品に多く出演した木場の語りがすばらしい。

 この日のインタヴュー&トーク・セッションは、イラク支援ボランティアの高遠菜穂子氏と、戦場/環境ジャーナリストの志葉玲氏であった。高遠氏といえば2004年に起こった人質事件の当事者であり、「自己責任」を求めるすさまじいバッシングに晒されながらも、この10年イラクへの医療はじめさまざまな活動を継続しておられる。第一部のリーディングでは、その人質事件のことも語られて、当時のことが蘇ってきたり、かの地での悲劇が一向に収束しないことへの思いもあって、トークでは涙でことばに詰まる場面もあった。

 高遠さんも志葉さんも、現場を肌身で知る人の生の存在と声というのは、それはもうたいへんな迫力で、1時間のトークがあっというまに過ぎた。できればもっと聞きたい、知りたいという気持ちをかきたてる。内容は非常に悲惨で課題があまりに多く、自分たちに何ができるか、何をすべきかを考えると暗澹たる気持ちになるのだが、不謹慎な言い方をお許し願えれば、お二方の肉声はその重苦しさを上まわる、大きな魅力があるのだ。

 それだけに、このトーク・セッションがよくもわるくも第一部のリーディングを食ってしまった。
 本公演の意義は、非戦を選び、非戦を訴える演劇人による舞台をひとりでも多くの人に届け、チケット代やカンパ、書籍やさまざまなグッズを販売して資金を集めて、しかるべき団体や運動の母体を支援して、日本と世界の平和を守ることにある。
 そのために、リーディングじたいの完成度、舞台作品としての独立性が多少後退してしまうのは、いたしたないことなのかもしれない。

 司会進行の篠原久美子氏は、ゲストの活動や作品だけでなく人柄にも心を寄せて、強い信頼と尊敬を抱いているようすである。それはまったく構わない。ただそのようすに共感というよりも、多少とでも「引く」気持ちが生じたこともたしかなのである。
 トーク・セッションの終了まぎわ、「ここに集まった方々は、みんな平和を願っていると思う」と発言されており、おそらくそのとおりなのだろうが、やはり小さな異和感を覚える。

 平和を願わない人は誰もいない、心から争うことが好きで、人を殺したり自分が死んだりすることに迷いのない人はいない。と自分は信じている。いや信じたい。
 それは憲法を改正することを主張し、集団的自衛権行使容認を閣議決定し、海外に武器を輸出している安倍首相を頂点とした政権を構成する人々であっても、そうなのではないか。
 ただ方向性や手法が異なるのである。
 なぜ集団的自衛権の行使を容認することが、日本をますます戦争をしない国にするのか、今までと何も変わらないと言えるのか、これだけ大反対している人がいるのに、なぜ納得できるような説明をしないのか。
 安倍首相の会見や菅官房長官のインタヴューを聞いていて胸が悪くなるのは、この方たちが戦争をしたがっている、日本を戦争のできる国にしようとしているから以前に、こちらの質問にちゃんと答えずにはぐらかし、話をすり替え、誠意をもって向き合っていないからである。

 今回の公演の姿勢や内容に対して、はっきりと賛同できる人はもちろん大勢いらっしゃるだろうが、それ以上に、そもそも事象がよくわからなかったり、情報が多すぎて混乱していたり、ただ何となく不安だったりする人、そしてさらに、時の政権を支持する人もいるかもしれない。
 自分の考えをより明確に示してくれる舞台や意見に力を得て、いよいよ強く発言や活動をすることができれば、この公演は成果を挙げたと言える。
 しかし正反対の考えを持つ人に対して、どのような力を持ち得るだろうか。たとえば安倍首相や菅官房長官や自民党の支持者とは言わないまでも、原発の再稼働に賛成する人、憲法は改正するべきとの考えを持った人、政治に一家言持つ人などに対して、説得力のあるステージであり、トーク・セッションでありえるかということだ。

 筆者の知る限り・・・といっても非常に狭い範囲ではあるが、憲法改正や集団的自衛権行使容認を指示する人は、非常に冷静で理論家である。そういう人からすれば、反対派はものの本質をみずに、ただただ戦争反対を叫ぶヒステリックな集団にみえるらしい。だから互いに歩み寄って意見を出し合い、こちらの考えを理解してもらおうなどとは考えず、反対派など歯牙にもかけない、小ばかにしているようにすら思える。
 そういう手ごわい相手を説得するには、知恵が必要だ。気持ちだけでは通用しないから、感情的な演技やそれを求める演出は、逆効果になりかねない。たとえばイラク派遣によって心に傷を負い、みずから命を絶った自衛官の家族が悲しみを訴える場面や、安倍首相に抗議する人々の話し方など、もう少し抑制が必要ではないか。それができる俳優さんが多く出演しているはず。

 「非戦を選ぶ」ということばも重要だが、もっと重要なのは、「演劇人の会」ということである。
 もっとことばを吟味し、戯曲を練り上げ、稽古を重ねて舞台の精度を高めて、舞台そのものにおいてみる人の心に変化をもたらすことを求めたい。

 昨年の公演でトーク・セッションに登壇した社会学者の小熊英二氏のことばを思い出す。
 演劇は何のためにあるのか、なぜわれわれはこのように経済効率が悪く、世界の事象に対して速攻の効力を持てないものに情熱を注ぐのか。これは作り手だけでなく、客席の自分にも問われていることだ。自分は戦争が始まるのを待つ者ではない。そして演劇がこの世において何をなしうるかを心躍らせ、頭を鎮めて見つづけたいのである。

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