本作は2022年7月、第15回シアターχ国際舞台芸術祭2022において、有吉朝子脚色、萩原萌(劇団新人会)、松田崇、二宮聡構成・出演で上演されている(未見)。「玄海灘を上演する会『金達寿『玄界灘』より』というタイトルなどから、劇作家が脚色した戯曲を3名の俳優が共同で構成・演出し、上演したものであろうか。1年後の夏、志賀澤子を演出に迎え、さまざまな劇団やユニットの総勢15名の俳優陣による、まさに満を持しての本格上演だ(シアターχ出演の松田、萩原、二宮は今回も出演)。主催者のサイトの「企画趣旨」からは、原作への並々ならぬ熱意が伝わる。遂にこの日が来た。その喜びに溢れる初日を観劇した。
公演チラシに「在日コリアン文学の先駆者」とある金達寿(Wikipedia)の原作の長編小説は予想よりも手強く、何とか読み通したものの、構成や人物関係、その心象まで理解、把握できたかどうかはまことに心もとない。政治色濃厚な内容や日本の加害者としての歴史を否応なく突きつけられることなど、正直なところかなり観劇前は「引き気味」であった。
純白の美しいチマチョゴリを纏った連淑(神由紀子/朱の会)の静かだが力強い歌声に導かれた人々が、彼女の歌に唱和しながら舞台に登場する冒頭、観劇前の懸念はいつのまにか消えていた。それから休憩なしの2時間5分、心身の緊張の緩むことなく、劇世界に没頭することができた。
舞台は1942年、日本の植民地時代末期の京城(現代のソウル)である。西敬泰(高井康行)は日本の大学を卒業して地元新聞記者になったが、日本人女性大井公子(萩原萌)との恋愛に行き詰まり、京城の京城日報社に入る。かつて留学中に敬泰と池袋の居酒屋で交友となった白省五(和田響き/東京演劇アンサンブル)は、日本留学中のある体験に傷つき、今は親日派の実業家である父とその後妻のもと、無為の生活を送っている。物語は二人の青年を軸に、独立運動に身を投じる人々、彼らを粛清しようとする特高、御用新聞社と言われる京城日報社などの日本人の複雑な関係や心情を描く。
舞台下手奥に新聞社の一画、上手奥に省五の暮らす贅沢で瀟洒な家、下手手前に旨いマッコリと連淑の歌が評判の居酒屋にして実は独立運動闘士らの活動拠点という複数の空間が作られている。最小限の家具調度や小道具を効果的に見せ(省五の部屋の高価な敷物や大きな壺など)、テンポよく展開する。演出の志賀は気風の良い居酒屋のおかみであり、独立運動家たちを助けている朴定出として出演し、アコーディオン演奏も聞かせる。若手から中堅、ベテランまでが揃う俳優陣は適材適所の配役を得て持ち場を誠実に勤め、気持ちのよい舞台となった。
この濃密な長編小説を1幕の舞台に脚色するには大変な困難があったと想像するが、有吉は小説の印象深い場面を効果的に取り入れ、ぜんたいを無理なく構成している。あざとさがないのは、作品に向き合う誠実な姿勢ゆえであろう。小説の拙い読者であった自分も、「そうだ、そういう場面があった」と記憶を喚起され、さらにそれが舞台で立体化する様相によって、人物の心象をより強く味わうことができた。
たとえば特高の李承元(二宮聡)は省五を監視すると見せかけて、省五に活動家たちを引き合わせる。しかしそれはより確実な不逞分子摘発のためであった。特進の約束を幾度となく反古にされ、日本人の母子から蔑まれたこと、自身の母の臨終に間に合わなかったことなど、彼の苦悩や葛藤の様相は、物語に複雑な色合いをもたらす。
また、何も言わず日本を去った敬泰を追って、公子が単身京城へやってくるのだが、以前日本で花見をした帰り、野草を摘む朝鮮人の女性たちを見て公子が漏らした言葉に対する敬泰の反発には、お互いに恋する間柄であっても越えられない壁や溝があることを示す。
短いが印象的だったのは、敬泰が新聞社の先輩の古屋(渡辺修/けさらんぱさらん商会/こりっち紹介ページ)から煎餅を勧められる場面である。あまり好きではないと敬泰はいったん断るのだが、「それならひとつ」と手に取って、古屋が煎餅をひと口齧るのを見届けてから、控えめに口へ運ぶ。この自然な振舞いに敬泰の奥ゆかしい気質を思わせた。これが戯曲に書かれていることか、演出によるものかはわからないが、いずれにしても細かいところまで配慮され、俳優がそれに応えた場面として忘れがたい。
独立運動家たちは捕らえられ、悲惨な結末を迎える。物語の時代から80年を経ても、日本の過去の罪は清算されていない。問題は根深く、いよいよ重いことを考えると絶望的にすらなるが、最後に違いの名を力強く呼び、向き合った敬泰と省五の清々しい笑顔は、この舞台が作り手受け手の双方にもたらす希望であろう。
終演後に見上げた美しい月
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