因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

モナカ興業#12『旅程』

2012-10-21 | 舞台

*フジノサツコ作 森新太郎演出 公式サイトはこちら 三鷹市芸術文化センター星のホール 28日まで MITAKA“Next”Selection13参加作品(1,2,3,4,5,6,7)
 星のホールは舞台の天井が高く、奥ゆきも袖部分もたっぷりとある。演技エリアと客席のつくりも作品によっていろいろに変えることができ、作り手にとっては腕が鳴る劇場ではなかろうか。みるほうにとっても、「今日はどんな空間になるのだろう」といつも楽しみだ。しかしながらこの自由自在なところがあんがい曲者であり、空間を使いこなすことに懸命になるあまり、かんじんの物語が薄くなるというか、劇場使用の創意工夫が前面にでる作品も少なくない。これまで下北沢OFFOFFシアターや新宿ゴールデン街劇場など、小さな劇場での公演が多いモナカ興業が、果たして星のホールをどう制するのか。

 公演がまだ一週間続くので、舞台の詳細を記すのは控えておく。結論をいうと、自分が期待と同時に懸念していた星のホールの劇場空間の使い方については、まったく杞憂であった。劇場に対する気負いがなく、高さも横の長さも効果的に使っており、しかもそれがあざとくない。 
 ある企業で働く人々、ある家庭の家族、姉と妹という複数の世界が接したり離れたりしながら同時進行する。こういう作りはとくに目新しいものではないが、たいていの場合つながりを作ろうとする人物が配置され、いっけんバラバラのような人々が緩くまとまってゆく過程をみせることが多い。しかし『旅程』の人々はつながらない。むしろどんどん離れてゆく。それは人間関係が破綻することが物語のモチーフのひとつになっているからでもある。
 
 今回気づいたのは、「この場面がまさにこの俳優の見せ場だ」という箇所がないことだ。ここ数年モナカ興業の舞台に通っているのだが、出演俳優その人の印象があぜんとするくらい残っていない。それは戯曲や演出が突出して俳優の存在を消し去っているからではなく、俳優さんが地味なタイプの方々だということではない。誤解のないようにはっきり記すが、モナカの舞台に出演する俳優さんは、毎回いずれも魅力的で実力のある方々である。俳優だけではなく、鋭角的であったり、逆に日常生活が生々しく感じられるものであったり、さまざまな舞台美術もモナカをみる楽しみのひとつなのだが、これも不思議なことに観劇のあとにイメージが強烈に残るものではないのである。

 では何が残るのか。それはフジノサツコの劇世界、彼女の心象風景とでも言おうか。昨年冬の『理解』あたりから劇作の方向性が強烈に変化したことを感じたし、最新作においても、現在社会における女性の生き方、男性に蹂躙される女子高校生の未来が、職場で存在をつぶされてしまう女性会社員であるというみかたもできる。しかしフジノサツコは社会的な作品を書いたわけではないと思う。

 劇作家フジノサツコが舞台でみせたいことは、その一面で「みせたくないこと」でもあり、何を強く言いたいか、訴えたいかは、同時にあまり声高に言いたくないことではないだろうか。今回攻撃的なキャラクターの人物として、日向野敦子の演じる室長の妻(ある建設資材会社が舞台のひとつ)や、長瀬友子が演じる耳の不自由な妹を疎んじる姉がいる。まさに暴力そのものを描いた場面もあるのだが、彼女たちはいずれもこの物語を大きく転換させる力は持たされていない。もう少し何かあるのではないかと予感したので肩すかしでもあり、「突きつめ感」が足りない不満はたしかにある。しかしそこに劇作家の意図が潜んでいるのではないか。

 何を言っているのか自分でもよくわからない文章だ。もどかしいのに、あらま、自分は楽しんでいるぞ。春の『ファウスト』に撃沈してしまったことが尾を引いて、今回はこわごわの観劇だったが、モナカへの興味は新しい方向へ進みはじめた。探しても探してもみつからない宝物、いくら追いかけてもするりと逃げられてしまう鬼ごっこの相手。このつかみどころのなさ、優しいのか冷たいのかわからないところが、いっそう魅力的なのである。

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