*三好十郎作 松本祐子(文学座)演出 公式サイトはこちら 両国シアターχ 20日まで(1,2,3,4,5,6)
ここ数年、三好十郎の作品を観劇する機会が多い。はじめは怖気づいていたが、理解できたかどうかはさておき、『廃墟』、『その人を知らず』、『冒した者』など、長尺の重量級を受けとめた充実感は忘れがたく、また『をさの音』や『稲葉小僧』など、2時間足らずの小品から、まさに玉のように美しく温かな劇世界を知ったことも大いなる喜びである。文学座の松本祐子を演出に招いた今回の舞台は、上演時間の長さから言えば後者になるが、その内容は実に味わい深く、気持ちの良い余韻を残すものであった。
本作が発表されたのは昭和18年とのこと。物語もまさに戦争のさなか、東京の古びた簡易旅館兼下宿屋「ことぶき屋」二階の大部屋が舞台である。チェロ奏者の父は、娘を立派な音楽家にせんとスパルタ教育を施し、新聞小説の代筆で糊口をしのぐ文士、ゴム工場の見習い工、年老いた易者、モルヒネ中毒者などなど、よくぞここまでというほど、人生の底の底を知り尽くした人々がその日その日をようやっと生きている。宿を営む母子も借金を抱え、互いにぎすぎすしている。
それぞれ複雑な過去のいきさつや容易ならざる事情を抱えているが、特に身寄りがなく淋しい生い立ちの見習い工の三郎(藤原章寛)と、関東大震災で生き別れた一人息子を探し続けている易者の一閑齋(青木和宣)とは、些細なことで諍いが絶えない。ある日、馴染みの刑事がそれらしき青年が見つかったと知らせにくる。ことぶき屋の面々は一閑齋よりも歓喜し、いつも憎まれ口ばかり叩いている三郎は、「今まですまなかった」と泣いて詫びる。ところが…。
話のオチは他愛のないものであるが、やはり書かずにおくとして、この物語の題名が「夢たち」であることをしみじみと考えた。物語の後半のやりとりの中に、「夢」という言葉がことさら温かな響きで発せられる。むろん浮ついた夢では生きてゆけない。実現しそうにない夢には、希望よりも虚しさがつきまとう。人は夢に生かされると同じくらい、夢によって苦しむのである。
徴用令が来たことをこれほどまでに喜ぶ三郎と、本人以上に感激し、惜しみない祝福を贈る一閑齋、三郎と心を通わせるあいだでありながら、肝心のひと言を言えないお米の純情、満州へ働きにゆくという秋田の若者たちの実に折り目正しい振る舞いなどを見ると、これから敗戦に向かうことが胸が締めつけられるように悲しく、皆が生きていてくれたら…と祈らずにはいられないのである。
本作の肝心な点は、「夢の変容の様相」をつぶさに描いた点であろう。三郎は身寄りのない子どもたちが伸び伸びと遊べる運動場を作りたいと夢見ている。一閑齋は独り身の自分を淋しく思うあまり、夢と現実の境目が自分でもわからなくなった。そんな二人が終幕で、自分たちの夢をお米母子に託す場面は、より実現性の高いところに着地したというより、自分ひとりだけで抱いていた夢を、二人がいつのまにか、より多くの人と共有する喜びを求めた自然の成り行きであろう。夢見る気持ちは、自分を、相手を、そしてこの人生というものを、信じる気持ちなのだ。時代が映り、人々が抱く夢の様相が変わろうと、そのことだけは不変であると思いたい。
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