因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

水素74%vol.5『謎の球体X』

2013-08-14 | 舞台

*田川啓介作・演出 公式サイトはこちら こまばアゴラ劇場 19日まで
 2年前初演された作品を大幅に改訂したとのこと。リンクは以前の劇団掘出者時代から田川啓介作品観劇の記事(1,2,3,4,5,6,7,8,9)。
 『謎の球体X』再演の舞台を自分は食い入るように集中してみることができた。逆にいえば、初演はみることが心身ともにつらかった。残暑や寝不足のつかれもさることながら、あまりに自意識過剰の強い人々のやりとりに食傷しためだ。そういう観劇体験は舞台のことを記憶からどんどん遠のかせてしまうので、大幅改訂によって「あの台詞がなくなったのだな」とわかる箇所はほんの少しであり、ほぼ初観劇といったほうがよいだろう。

 どこかの町の借家。中学の同級生だったという女(兵藤公美)がたずねてくる。そこに住む女(川隅奈保子)は頭に包帯を巻き、みるからに痛々しい風情である。同級生の目的は金の無心であり、気弱な女は断り切れずに応じてしまうが、そこに帰宅した夫(古屋隆太)は町ではキチガイと呼ばれる乱暴者で、ころんだという妻のいいわけもすぐに嘘だとわかる。
 借家の大家(村井まどか)は暴力を受けている妻を本気で心配しているが、それはかつて「だいじょうぶだいじょうぶって言いながら屋上から飛び降りた」彼女を救えなかった自責の念のためである。大家の夫(折原アキラ)はからだが弱く、常に妻の介護が必要なだけでなく、妻の無償の愛を強要する。
 数年前に別れたきりの女の妹(富田真喜)がころがりこんできたり、「何者でもない男」が突然登場したりもする。

 本作は、ひとくみの夫婦とその周辺の人々の人間模様を描きながら、田川啓介が心に抱える葛藤や自意識や悲しみや恨みが劇中近づいてくる台風のごとく、みるものを不安にさせつつ、同時に得体のしれない奇妙な高揚感を与えるものである。登場人物のようすや話のながれだけ聞いていると、たぶん「いったいどんな芝居だ」と眉をひそめる向きもあろうが、客席には笑いも多くあって、自分も楽しんだ。

 劇本編もさることながら、今回は終演後のトークに興味深いものがあった。登壇者は作・演出の田川啓介、サンプル主宰の松井周、司会進行を新進気鋭と呼び声の高い演劇批評家の山崎健太が行った。3人の話は基本的にこの日の舞台に関するものであるが、「たがのはずれた人たちがとってつけたようなルールによって暴走していく」(松井)こと、『謎の球体X』の意味などにはじまり、人は何のために生まれるのか、生きる目的は何かといった壮大なテーマに広がった。
 そこから引き出されたのが、「自分は何のために生まれてきたのかがわからない。子どものころから、なんでおれはこの世にいるのかと考えていた。日ごろから世間を恨んでいる。自分は親に喜ばれていない」という田川啓介の発言であり、浮かび上がるのは彼が自分の人生をあまり喜んでいないこと、自己肯定意識が非常に希薄であると思われることなどである。

 かんたんに言ってしまえば「自意識過剰」ということか。劇中でもからだが不自由なためにつねに妻の介護を必要とする夫が、妻に肩を借りながら「肩を貸してやっているという優越感を感じさせないでくれ」という台詞にもあらわれている。松井周いわく、「相手を自分の意識のなかで考えようとするからじゃないか」とたしなめていたが、そのとおりだと思う。

 芝居はあくまで芝居であり、劇中の人物の性格やふるまいを社会的規範によって良い悪いと批判するのはおかしなことだ。あくまでフィクションなのだから。
 しかしながらこのような劇中人物を生みだし、生身の俳優がその人のものとしてことばを発し、相手のことばを受けとめるということを、「これはお芝居だから」と片づけてよいものかと心配になるのである。
 たとえば本作に登場する姉妹である。姉は痛ましいくらい周囲に気を使いながら夫に暴力をふるわれ、友だちと称する女からは金をせびりとられ、大家には頭を下げどおしだ。やせぎすで化粧気もなく、いつも困ったように眉根を寄せている。
 そこに突然押しかけてきた妹はなかなか可愛らしい顔立ちで妙に肉感的なからだつきをしている。妹によれば父親は姉むすめを露骨に疎んじ、妹むすめとは溺愛を通り越して性的関係に及んでいた。「お父さんはお姉ちゃんのことを、いらない?はしたない?汚い?って言ってたし」という妹のことばを姉は悲しげに「もういいよ」と遮る。
 その妹も周囲の男たちから最初は大事にされるけれども、そのうち「あんたそんなに可愛くないよ。どっちかっていうと不細工だ」と愛想を尽かされ、姉からも「あんたにはね、何の価値もないよ」と諭される。
 お芝居だとはいえ、あんまりな扱いである。これほどの台詞を言わせ(聞かされ)、ひどい扱いをされることを生身の俳優に強いる(と敢えて言う)ことの重みを、劇作家の良心において誠実に考えているのだろうか。

 演劇をつくる目的は人によってさまざまだ。訴えたいこと伝えたいことがある、理解してほしいという強い方向性のあるものから、まずは自分がおもしろいと思ったものを作るというスタンスもある。
 当日リーフレット掲載の田川啓介の挨拶文には、「どんなにあがいたってなにも変えることはできないんですが、なにかをつくる人って変えるためじゃなくて、ただなんでだよ、て叫ぶためにものをつくるんじゃないかなあと考えていまして、『謎の球体X』はそういう、なんでだよちくしょう、という気持ちを込めてつくりました」とある。
 非常に理路整然として納得できる。変に気負って演劇によってこの国を変えるのだとかん違いの暴走をするよりも、よほど正直で良心的ですらある。

 ただあなたが「なんでだよ、ちくしょう」という思いを舞台にするには、あなたひとりではできないということだ。俳優はじめ多くのスタッフの手によって、劇作家の脳内の疑問や恨みや悲しみが立体化される。さらにその世界は劇場に観客が存在してはじめて成立する。
 そうなったからには、劇世界は劇作家ひとりのものではなく、多くの人に共有されるものだ。 何のために劇をつくるのか。複雑な生い立ちやこれまで体験してきたこと、悲しみや苦しみ、何を劇のベースにするにしろ、自己を救済するためにひたすらつくることを否定はしないし、強烈で特殊な体験であればあるほど劇の迫力は増す可能性がある。

 自分を納得させ、救うための劇に多くの人の存在があるのだから、自己救済のその先を考えてほしいのだ。自己の存在を肯定できないのは、幼いころの環境や親をはじめとする周囲の人々の接し方に問題があると思われるが、はたちを過ぎたのなら自分にも責任がある。演劇をつくるという行為を趣味や道楽でなく、仕事としてつづけるのなら、どこかで殻を破り、もっと先をゆく必要があるのではないか。

 劇団掘出者時代の舞台を思い出すと、自意識に苦しむ人々が登場していた点は変わりないが、それでも彼らの生きる先にはまだ微かに希望の光らしきものが描かれていたと思う。どんどん暗くなったり絶望を深めたりしてもかまわない。しかしトークにおいて、田川さんが「(自分が)生れてこなかったことを夢みる気持ちがある」と話しておられたことを、「なかなかおもしろい感覚だ」とか「劇作家のひとつの意識」とだけ肯定的に捉えられない。残念だと思うのだ。
 松井さんは「生まれてこなかったら劇がつくれないじゃない」とフォローしておられたが、うん、そうですよ。

 田川啓介の舞台をみるのが実に2年ぶりであることに改めて気づいた。今夜再会を果たせたことが、自分はとても嬉しい。非常に単純な言い方で申しわけないが、記しておく。

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