ブッダの、
「真理のことば (ダンマパタ) 感興のことば (ウダーナヴァルガ) 」より。
原始仏典のうち、ブッダの教えを集めたもの。
無作為に選んで書き記します。(アマゾンで昔買った本です)
「たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢者である」
「天上の快楽にさえも心楽しまない。正しく覚った人 (=仏) の弟子は妄執の消滅を楽しむ」
「飢えは最大の病であり、形成された存在 (=わが身) は最もひどい苦しみである。この理 (ことわり) を、あるがままに知ったならば、ニルヴァーナと言う最上の楽しみがある」※
※ 真言密教の教主・大日如来は、「宇宙の理法」そのものであり、「人ではない」と前述しました。
原始仏典で、ブッダが、「この理 (ことわり) 」と言う言葉を何度も使っていますが、「理」=「理法」=「真理」・・・これらを、後の時代にヒンドゥー教の修法を取り込むような形で成立した密教「大日如来」と呼ぶのです。禅宗で言えば、よく「〇」と書いてある「円相」と同じ意味かと。(ヒンドゥー教に対抗するために、密教と言うものが体系づけられたと言う説もありますが、高野山真言宗の坊さんたちが、インドネシアのバリ島で、バリ・ヒンドゥー教の修法を見た時、「真言密教の修法とそっくりだ」と思ったそうなので、ヒンドゥー教と複雑に関係あるのは間違いないと思います。
もっと古いタイプの仏教で言えば、画像の通り「法輪」と同じかなと。(ウィキより)
ですから、ブッダが仰られている通り、「大日如来」を拝もうが、他の諸仏を拝もうが、結局は「自分自身」ということです。弘法大師が素晴らしいのは、密教の僧だからではなく、「足跡」「人格」が優れているから素晴らしいのです。
ニルヴァーナ・・・「涅槃 (ねはん)」とは、仏教で言う、究極の境地。
煩悩 (ぼんのう) が滅尽して、完全な悟りの境地に達したこと。
のちの大乗仏教の「唯識」では、有余涅槃 (うよねはん) と無余涅槃 (むよねはん) に分けて説明していました。
簡単に言えば、有余涅槃はまだ、肉体が生きて活動してる状態での「涅槃」。
無余涅槃は、肉体が死に、完全なる涅槃 (ニルヴァーナ) に入った状態。
お釈迦様の「入滅」のシーンがまさに、その無余涅槃です。
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